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れきたん歴史人物伝
れきたん歴史人物伝は、歴史上の有名人の誕生日と主な歴史的な出来事を紹介するコーナーです。月に一回程度の割合で更新の予定です。(バックナンバーはこのページの最後にもまとめてあります)


4月号 2018年4月30日更新

【今月の歴史出来事】
豊臣家、滅ぶ...
徳川家康が大坂夏の陣に出発
慶長20(1615).4.4


今月号のイラスト ◆豊臣滅亡の日で頼
(C) イラストレーション:結木さくら

4月の主な誕生人物
01日 親鸞/鎌倉時代の僧
01日 ビスマルク/政治家
01日 浜口雄幸/政治家
02日 アンデルセン/童話作家
02日 ゾラ/小説家
03日 アーヴィング/小説家
03日 長塚節/歌人、小説家
04日 山本五十六/軍人
05日 ホッブス/哲学者、政治学者
05日 内田魯庵/評論家、小説家
05日 カラヤン/指揮者
06日 ラファエロ/画家
06日 ミル/歴史家
06日 モロー/画家
07日 法然/平安、鎌倉時代の僧
07日 ザビエル/宣教師
07日 ワーズワース/詩人
07日 鈴木梅太郎/化学者
07日 小川未明/童話作家
08日 フッサール/哲学者
08日 岸田吟香/ジャーナリスト
09日 ボードレール/詩人
10日 ペリー/軍人
10日 グロチウス/法学者、政治家
10日 香川景樹/歌人
10日 ピュリッツアー/ジャーナリスト
10日 レーニン/革命家、政治家
11日 広瀬淡窓/江戸時代の儒者
11日 パーキンソン/医師
11日 小林秀雄/評論家
12日 マイヤーホーフ/生理学者
13日 トレビシック/発明家
14日 ホイヘンス/物理学者、天文学者
14日 トインビー/歴史家
15日 レオナルド・ダ・ビンチ/画家、彫刻家、科学者
15日 内藤鳴雪/俳人
16日 チャップリン/映画俳優、監督
16日 虎関師錬/僧
16日 ライト(ウィルバー)/発明家
16日 フランス/小説家
17日 板垣退助/政治家
17日 モルガン/実業家
18日 ズッペ/作曲家
19日 フェヒナー/心理学者
20日 犬養毅/政治家
20日 ナポレオン3世/仏皇帝
20日 ヒトラー/独裁者
20日 ミロ/画家
21日 ブロンテ(シャーロット)/小説家
21日 ウェーバー/社会学者
22日 カント/哲学者
22日 オッペンハイマー/物理学者
23日 プランク/物理学者
23日 ターナー/画家
24日 カートライト/発明家
25日 川路聖謨/江戸時代の武士
26日 シェークスピア/劇作家
26日 ドラクロワ/画家
27日 モールス/発明家
27日 スペンサー/哲学者
28日 伊藤東涯/江戸時代の儒者
28日 山田検校/筝曲家
29日 ポアンカレ/数学者
29日 田口卯吉/経済学者
30日 ガウス/数学者

慶長20(1615)年、大坂夏の陣が起こり、一時は天下に君臨した豊臣家が滅亡しました。この年の4月4日は、徳川家康がこの合戦のために駿府城を出発した日です。今回はそれにちなみ、「大坂冬の陣」も含めた「大坂の陣」のあれこれをご紹介したいと思います。

「冷戦」から実戦へ
慶長5(1600)年、天下分け目の大決戦「関ヶ原の戦い」が終結し、徳川家康率いる東軍が西軍に勝利しました。これによって豊臣秀吉の子・秀頼を盟主とする豊臣政権は大きく力を失いました。大坂の陣は、その豊臣家を滅ぼすために家康が仕掛けた戦いです。関ヶ原の戦いが家康の勝利に終わった時点で、大坂の陣が勃発することは決まっていたのかもしれません。

とはいえ、関ヶ原の戦いからしばらくは、家康も豊臣家をどうするか、はっきりと決めていなかったとも言われます。いうまでもなく豊臣家は家康にとってもともと主君にあたる存在。それを追い落とし、自らが天下に君臨するというのは、なかなかデリケートな事業でした。これまでどおり、家康より格上と振る舞おうとする豊臣家と、秀頼に臣下の礼をとらせようとする家康。「冷戦」とも言えるその駆け引きは、10年以上の時を経て、実際の戦へと進んでゆくことになるのです。

決戦までのエピソード
豊臣を滅ぼす、という決断はいつなされたのでしょうか。それは家康が雷に打たれたように戦を企図したのではなく、さまざまな要素が絡み合い、徐々にその空気が醸成されていったというのが実際でしょう。しかし、一つ、面白いエピソードがあります。慶長16(1611)年、秀頼と家康は京都の二条城で会見しています。このとき家康は、秀頼が凡愚の器であったならば、豊臣家はそのまま置いておこうと思っていました。しかし実際にそこに現れた秀頼は、他を圧倒するような巨躯を持った、凛々しく聡明な青年君主。秀頼を放っておけば必ず徳川の障害となると考えた家康は、ついに戦を決断したのです...というのがどこまで本当の話かはなんとも言えないのですが、秀頼が堂々たる体躯の持ち主であったというのは記録に残っています。

また、大坂の陣勃発のきっかけとしてよく知られているのが、いわゆる「方広寺鐘銘事件」です。方広寺というのは京都の寺で、もともとは豊臣秀吉が開きました。この大仏殿は前に倒壊していたのですが、これを秀頼が再建し、慶長19(1614)年に完成します。このときにつくられた梵鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の銘文が問題で、家康の名を切り離してその没落を願い、豊臣の繁栄を願ったもの、と解釈されたのです。この事件が、豊臣対徳川の決戦の引き金を引くこととなるのです。

冬の陣
最初の戦いは「大坂冬の陣」。慶長19年のことです。鐘銘事件の直後、秀頼は食料や武器を急ピッチで準備し、各地から浪人たちも集まり、その兵力は10万を超えたといいます。むろんその中には、少し前にテレビドラマでも話題となった真田信繁(幸村)の姿もありました。

戦いが始まったのは11月のことです。豊臣方には城外へ打って出る戦い方もあったのですが、最終的には籠城戦を選択しました。真田信繁が出城「真田丸」に拠り、徳川方に大損害を出すといったこともありましたが、徳川方の大砲が大坂城を間断なく砲撃したことも影響し、最終的に両者は和議を結びます。

しかしこの和議が曲者で、秀頼の身柄を保障する代わりに、大坂城の堀を埋め立てるという条件で結ばれます。実際には堀どころか、城の一部も壊されてしまい、大坂城は要塞としての能力を失いました。この状況下で起こったのが、続く「大坂夏の陣」でした。

夏の陣、そして
大坂夏の陣は、豊臣方にとって、はじめから絶望的な戦いであったでしょう。堀がないのですから籠城戦は無意味で、豊臣方の諸将は近辺へ打って出て徳川方と交戦しました。夏の陣においても、真田信繁は奮戦し、天王寺の戦いにおいて徳川家康の本陣に迫りました。その突撃は凄まじく、家康本隊の馬印が倒され、家康自身も半ば錯乱状態に陥るほどであったと伝えられます。しかしそれも戦局を変えるほどではなく、信繁も討ち死にしました。

戦いは徳川方の勝利で終わり、豊臣秀頼とその母・淀殿は戦死しました。秀頼には幼い息子・国松がいましたが、かれも捕らえられて処刑されました。こうしてついに豊臣家は滅亡し、徳川家康に対抗できる主な勢力は日本から消えたのです。家康はまるでこのときを待っていたかのように、その翌年に亡くなりました。

ちなみに、秀頼と国松には生存説があります。真田信繁が連れて九州か琉球に落ち延びたというのですが、根拠がなく、伝説でしょう。しかしかれらが生きているという噂は当時からあったようで、そのような噂が生み出される雰囲気が、人々の思いが、当時からあったのでしょう。

 



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