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れきたん歴史人物伝
れきたん歴史人物伝は、歴史上の有名人の誕生日と主な歴史的な出来事を紹介するコーナーです。月に一回程度の割合で更新の予定です。バックナンバーはこのページの最後にまとめてあります。


7月号 2006年7月27日更新

【今月の歴史人物】
余は生まれながらの将軍である
徳川家光
慶長九(1604)年.7.17〜慶安四(1651)年.4.20

今月号のイラスト
徳川家光
◆生まれながらの将軍
(C) イラストレーション:結木さくら


7月の主な誕生人物
01日 ライプニッツ/哲学者、数学者
02日 ヘッセ/小説家、詩人
03日 カフカ/小説家
04日 ガリバルディ/将軍
    フォスター/作曲家 
05日 コクトー/作家
06日 ホブソン/経済学者
07日 睦奥宗光/政治家
    マーラー/作曲家
    シャガール/画家
08日 ロックフェラー/実業家
09日 レスピーギ/作曲家
10日 カルヴィン/神学者
    ピサロ/画家
    プルースト/小説家
11日 穂積陳重/法学者
12日 モディリアーニ/画家
    ソロー/作家
13日 森有礼/政治家
14日 緒方洪庵/江戸時代の医師、蘭学者
    ミュラー/生物学者
   後鳥羽天皇/第82代天皇
15日 レンブラント/画家
    国木田独歩/小説家
16日 アムンゼン/探検家
    コロー/画家
17日 徳川家光/江戸幕府三代将軍
18日 ローレンツ/物理学者
    サッカレー/小説家
    内藤湖南/歴史学者
    フック/物理学者
19日 ドガ/画家
    クローニン/小説家
20日 伊藤仁斎/江戸時代の儒者
21日 ヘミングウェー/小説家
22日 メンデル/植物学者
23日 二宮尊徳/江戸時代の農学者
    フィッシャー/哲学者
24日 谷崎潤一郎/小説家
    ボリバル/独立運動指導者
    デュマ/小説家
25日 バルフォア/政治家
26日 ユング/心理学者
    ショー/劇作家
27日 高橋是清/政治家
28日 フォイエルバッハ/哲学者
    片山哲/政治家
29日 ハマーショルド/政治家
    ムソリーニ/政治家
    重光葵/外交官
30日 フォード/実業家
31日 クラーク/教育者家
    柳田国男/民俗学者

三代目のリーダーが優秀であるかどうかで組織の存続が決まる、というようなことがよく言われます。歴史を紐解けば、鎌倉幕府の三代目・源実朝は文人肌で家臣団を御することが出来ず、正統将軍の血を絶えさせてしまいました。室町幕府の三代目・足利義満は卓越した政治手腕で南北朝を合一、反幕勢力も駆逐するなど幕府の体制を固めました。
そして江戸幕府三代将軍徳川家光。江戸幕藩体制の確立者として名高い人物です。優秀な人物であったことは間違いありませんが、その立ち位置には初代家康、二代秀忠とは全く異なるものがありました。将軍職そのものの意味合いが、家光を境に変化してゆくのです。

将軍として育って
徳川家光は慶長九(1604)年の7月17日、江戸城にて誕生しました。父は江戸幕府二代将軍・徳川秀忠。将軍継承の関係上、男子の誕生が切望されていたこともあり、祖父・家康の喜びも大変なものでした。家光の幼名は竹千代。家康の幼名と同じであり、このことからも家康の喜びようがよく分かります。
このままいけば家光の将軍継承ということだったのですが、やがて国松と名付けられた弟が誕生します。当然二派に分かれての跡目争いが発生しました。結果として家光の方が家康に認められ、次代の将軍としての地位を手にしますが、この時に活躍したのが家光の乳母・春日局です。
さて、次期将軍の座についた家光には何人かの教育係がつきました。いずれも徳川の信任篤い重臣であり、優秀な人物たちでした。彼らによって家光は言わば「帝王学」とでもいうような教育を受けたのでしょう。中でも家光を厳しく教育したのは青山忠俊という重臣でした。将来の将軍としてふさわしい振舞いなどを叩き込み、その厳しさは家光の恨みをかうほど。事実一人立ちしてから家光は忠俊に蟄居を命じ、忠俊は蟄居処分のまま亡くなりました。
後に家光は忠俊が後に将軍となる己のために厳しく接してくれたことと思い至り、このことを深く後悔したといいます。幼い頃から次期将軍として育てられた男の高慢からきた過ちといったところでしょうか。武将上がりだった家康、秀忠らと「次期将軍」家光。その違いがよく表れているように思えるエピソードです。

格が違う!
やがて秀忠が二代将軍の座を退き、家光の将軍就任の時がやってきます。しばらくは大御所・家康と二代将軍・秀忠の時のような二元政治が続き、秀忠の死後にいよいよ本格的な家光の治世が到来しました。そしてこの時、諸大名を前に家光はこう宣言したと伝えられています。
「余は生まれながらの将軍である」と。
家康、秀忠はもともと戦国武将です。そこから知略軍略を尽くして天下人へ登り詰めました。並みいる大名らの中には徳川の家臣ももちろんいましたが家康、秀忠の天下取りに対する協力者、言わば「元同僚」も多くいたのです。
一方、家光の生まれは「1604年」。すなわち江戸幕府の成立後です。よって、家光は生まれ落ちたその時から将軍となることを約束されていた(跡目争いなどもあったため厳密には違いますが)人間であり、他の大名とは全く格が違うということになります。もちろん元同僚などという気安さ、しがらみなども一切関わりのないこと。家光にとって全ての大名は「家臣」に過ぎません。
家光は自分を「生まれながらの将軍」と位置付けることで、江戸幕府の将軍職とは全ての大名に君臨すると改めて示したのです。

孤高の施政者
その後の家光の辣腕ぶりはご存知の通り。以後の幕府による強力な支配を確定させたとも言える重要政策を次々と実行しました。
例えば、妻子を江戸に釘付け、大名は江戸と地元を往復させる参勤交代制度。道中では大名行列によって湯水のごとく金を遣わせ、なかなか蓄財させないなど、二重三重に考え抜かれた大名への枷です。
例えば、一部を除き海外との接触を禁じた鎖国制度の完成。キリスト教宣教師による内政干渉を未然に防ぎつつ、オランダや中国との貿易を幕府の独占事業としました。その過程では海外在住日本人の帰国禁止という処置もなされ、多くの悲劇が生まれたといいます。
これらの政策を見るに、家光の幕府運営は、先代、先々代の事業を受け継ぎつつも、それらに比べて余りに鋭く、システマチックに進められたという印象です。これはやはり幼い頃からの教育と、「生まれながらの将軍」であるという誇りが可能にしたものでしょう。
しかし、その一方で家光が家康に傾倒したことも見逃せない事実です。後世の財政難の遠因ともなったと言われるほどの費用をかけ、家康を祀る日光東照宮を造営したのは、この家光なのです。ここに何か、家光の複雑な心中が垣間見えてはこないでしょうか。戦国の気風を強く残す時代にあって、戦国を知らぬ男。戦国に対する憧れや、遅れて生まれて来たという焦燥感、孤独感が、家光にはなかったでしょうか。
家光が諸大名の前で宣言した「余は生まれながらの将軍である」という言葉。これには、彼の政策のような、二重三重の意味が込められていたに違いありません。徳川家光とは、江戸幕府の確立期を打ち立てた人物である以上に、将軍職そのものの過渡期をくぐった孤高の施政者でした。

 


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