欧米の技術を導入せよ
明治維新の激動が去り、近代日本が産声をあげたころ、政府によって多くの外国人が招かれたことをご存じでしょうか。
当時の日本は近代的な政府が樹立したばかりで、国力そのものが欧米と比べて非常に弱い状態でした。日本という国を一刻も早く大きくする必要性を、当時の日本人は感じていたのです。そこで、欧米の最新技術や知識をいち早く国内に導入するため、海外からさまざまな専門家が数多く招かれました。彼らのことを通称「お雇い外国人」といいます。
お雇い外国人達
招かれたお雇い外国人の専門分野はさまざまです。また、それは工業技術だけではなく、教育や思想などの分野も含まれます。代表的なお雇い外国人を何人か挙げてみましょう。アメリカ人のモースは生物学を専門とし、東京大学で教鞭を取りました。大森貝塚を発見したことで有名です。フランス人のボアソナードは法学者です。日本最初の民法の起草に力を注いだほか、法学教育の面でも業績を残しました。アメリカ人のコンドルは建築家。鹿鳴館を設計したことで名を知られています。同じくアメリカ人のフェノロサは哲学者として来日しましたが、日本美術に魅せられ、岡倉天心らと共に、日本美術の復興・再評価に尽力しました。
これらお雇い外国人は、非常な高給を取ったということもあり、欧米の技術が日本国内に浸透するにつれ、徐々に姿を消してゆきます。しかし、近代のスタートラインに立ったばかりの日本にとって、決して小さくない実績を残したのは紛れもない事実でした。そして、そんなお雇い外国人の一人がクラーク博士です。
短いながらも
クラークは1826年7月31日にアメリカ・マサチューセッツ州で生まれました。専門は鉱物学・植物学。日本政府の要請で、1876年に札幌農学校の初代教頭に着任しました。着任後、農学校の学則をどうするかについて相談を受けた時「『紳士たれ』の一言でよい」と答えたというエピソードは、クラークの人となりをよく表しています。札幌農学校では自ら教鞭も執り、語学や植物学を教えました。
農学校でクラークは、通常の学問のほかに、キリスト教、特に聖書を用いた道徳教育に力を入れました。クラークのすぐれた見識や人格、道徳観に影響を受けた学生たちは熱心に学問に打ち込みました。公私に渡る付き合いもあったといい、クラークと学生たちの絆も非常に強かったといいます。
意外にもクラークが札幌農学校にいた期間は長くありません。わずか八か月に過ぎないのです。これは、クラークが当時アメリカでマサチューセッツ農科大学の学長をつとめていたためで、彼はその休暇を利用して来日していたのです。短い任期を終えた後、クラークは札幌農学校を惜しまれつつ去りました。この時のクラークが、見送りの学生たちに向かって発したとされる言葉「青年よ大志をいだけ」は、今なお日本人に広く知られています。
しかし、わずか八か月でも、クラークの直接の教えを受けた学生たち(札幌農学校一期生)からは数々のすぐれた人材が輩出されました。クラークが去った直後の学生(二期生)の中からは内村鑑三、新渡戸稲造という近代史上に残る人物も出ました。二人は熱心なクリスチャンとしても知られます。彼らは一期生の直後の後輩であり、クラークから直接学んだわけではないとしても、その教えを充分に感じとる機会は多かったに違いありません。クラークの播いた種は着実に芽を出したのです。
その後、札幌農学校は力強く発展を続け、現在は国立の名門・北海道大学となっています。
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