今月ご紹介するのは、フランスの画家・ミレー。「バルビゾン派」に属し、農民画でよく知られています。
画家を志す
ミレーはフランス北部の小さな村・グリュシーで、1814年の10月4日に生まれました。1814年は日本でいえば江戸時代後期、11代将軍徳川家斉の治世。いわゆる化政文化のころです。なお、当のフランスはというと、ナポレオン時代の最終期にあたり、いよいよナポレオン失脚か、王政復古かという綱引きがおこなわれていた時代の境目に当たります。
ミレーの家は農家でしたが、ミレー自身は画家を志し、10代のころから絵の修行をおこなっていました。そして23歳の年、ミレーは芸術の都・パリへと出て、本格的な絵画修行をはじめます。はじめ弟子入りしたのはドラロッシュという画家でしたが、師匠にはあまり評価されなかったようです。ミレーは肖像画や裸体画、看板画等で糊口をしのぎながら修行を続けます。
26歳の年にはミレーの絵がサロン(フランス芸術アカデミーの公式展覧会)に入選します。このころ、ミレーは結婚を経験しますが、妻は結婚後わずか3年ほどで病死し、その後出会った女性と再婚しています。
バルビゾン派
初めてのサロン入選から数年間で、ミレーの作品はさらに何度かサロン入選し、その名声も徐々にではありましたが上がってゆきました。この間、ミレーの作風は変化してゆきます。当初は古典的な題材、あるいは肖像画などでしたが、後半は農民や農村の風景に題材をとるようになります。
当時、フランスの絵画界では、古典的な題材を重視する伝統的な立場に対し、自然の中に観察されるありのままの題材を重視する立場が現れてきていました。彼らはやがて広く認められるようになります。彼らの多くはパリ郊外にあるバルビゾンという村に集まって活動したため、バルビゾン派と呼ばれるようになります。このバルビゾン派の流れが、のちに絵画界を大きく変えることとなる印象派の流れにもつながってゆくのです。ミレーはその中の一人に数えられるわけです。
ミレーがバルビゾン村に移住したのは34歳の年のことで、当時流行していたコレラを避けるためという理由があったといいます。ともあれ、ミレーの代表作の数々は、このバルビゾン村で描かれることとなります。
農民を描く
ミレーの代表作といえばまず「落穂拾い」があがるでしょう。題名どおり、刈り入れの済んだ麦畑において、取りきれずに地面に落ちている麦の「落穂」を拾い集める女性たちの姿を描いた作品です。麦を刈り入れる際は、落穂まで残らず刈り入れてはならない、というのは聖書にも書かれていることでした。つまり、残った落穂は貧しい人々が拾うために残しておきなさい、ということなのです。
「晩鐘」も有名な絵画です。夕暮れ時、農作業の最中に聞こえてきた教会の鐘に対して祈りを捧げる夫婦の姿を描いた作品です。
両作品に共通しているのは、宗教が関係していることです。これらの作品が、何の変哲もない農村や農民を描きながらも、たいへん厳かで尊い印象を抱かせるのは、そんなところに理由があるのかもしれません。
ミレーは1875年の初頭、60歳で亡くなりました。死のそのときまでバルビゾン村で過ごしています。
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