杉田玄白と言えば江戸時代の医師。同じく医師・前野良沢らとともにオランダの医学書を『解体新書』として訳出したことでよく知られています。その後の玄白は蘭方医として順調に出世し、大きな名声を得ました。一方、共に『解体新書』を世に出した良沢はそうではありませんでした。玄白と良沢、二人の医師の対照的な生涯とはどんなものだったのでしょうか。
翻訳を決意する
杉田玄白は亨保18(1733)年の9月13日に、小浜藩の医師の息子として江戸で誕生しました。自身も父と同じく医の道を志し、伝統的な漢方医学と西洋流の医学を学びましたが、徐々に西洋医学の分野へと興味を深めてゆきました。
そんな中、玄白は幕府の許可のもと、刑死体の解剖に立ち会うチャンスを掴みます(当時は人体の解剖は基本的に禁止されており、医師でも解剖を目にする機会は滅多にありませんでした)。当時の医学と言えば漢方が主流。人体の把握についても漢方式で、その内容は実際の人体とは異なるものでした。それだけに、実際の人体解剖を目にした玄白の衝撃は大きなものだったでしょう。また、玄白は立ち会いに際してオランダの解剖書を持参しており、その解剖書の内容が目の前で行われた解剖の様子とぴったり符合することも確認しました。玄白は西洋医学の正確さを実感したのです。
そして、その解剖に同じく立ち会っていたのが前野良沢でした。しかも良沢は、玄白が持参したものと同じ解剖書をやはり持参していました。こうした縁に導かれ、二人は西洋医学を世に紹介しようと、そのオランダの解剖書を和訳することを決意しました。
『解体新書』完成!
前野良沢も医師でしたが、学者肌で一途・頑固な人物であったと言われます。中年を過ぎてからオランダ語の習得に情熱を燃やし始めたというところも一風変わっています。当時、海外とのほとんど唯一の窓口であった出島へ赴いて、オランダ語の通訳から直接オランダ語を習ったり、江戸でトップクラスのオランダ通であった青木昆陽のもとを訪れたりして、オランダ語の実力を磨いていました。
さて、玄白・良沢が協力して解剖書を訳すことになったわけですが、主にオランダ語の知識がある良沢が翻訳のリーダーシップを取り、玄白は人々のまとめ役(二人以外にも協力者が多くありました)や本を世に出すための準備役として働きました。やがて三年以上の月日を経て、解剖書は『解体新書』として出版されたのです。『解体新書』は評判を呼び、大成功をおさめました。日本の洋式医学、ひいては蘭学と呼ばれた西洋式の学問そのものがここから大きく発展していったと言っても過言ではありません。
ところで、『解体新書』の訳者が杉田玄白となっていることはご存じでしょうか。前野良沢ではないのです。良沢が翻訳作業でより重要な役割を担ったのは確実であるにもかかわらずです。玄白が手柄を一人占めしたのでしょうか。
玄白と良沢
実は『解体新書』はオランダ解剖書の完全な訳ではなかったのです。時間や手間などの問題から、訳していない部分がありました。そのため、学者肌の良沢がそれに満足せず、自らの名を訳者から外したとも言われるのです。一方、杉田玄白は完全な訳ではないにしろ、西洋の解剖書を世に出すこと自体に大きな意義があると考え、責任者の自分の名を訳者として『解体新書』に掲載したのでしょう。また、訳者不明のまま本を出版するわけにもいかなかったという事情もあるでしょう。どちらにしても、学者としての良沢と、実務的才能に長けた玄白の違いが表れた出来事と考えられます。
さて、大きな名声を得たその後の玄白は出世街道をひた走りました。玄白の医院には教えを乞う門人が殺到し、江戸でも有数の医師として賞賛されました。晩年には将軍への目通りも許されたのです。解剖の現場に立ち会って以来、西洋医学を広めるという玄白の思いは大きな実を結んだと言えるでしょう。
良沢の方はどうだったでしょう。『解体新書』の出版以後の良沢は玄白とは疎遠になり、ただひたすらオランダ語の習得に邁進しました。やがて日本でも有数のオランダ語の実力を持つまでになりましたが、自らの名声には関心を持たず、書いたものを出版することもありませんでした。そうして亨和3(1803)年にひっそりと亡くなりました。とことん学者肌の人物であったのです。
良沢が亡くなった約14年後の文化14(1817)年、大栄達を遂げた玄白も亡くなりました。要領よく動き、社会に蘭学を認めさせることに成功した上、自らの栄達も実現した杉田玄白。蘭学を広めることにも栄達にも関心を示さず、自らの学問を高め続けた良沢。どちらが幸せであったかは誰にも分かりません。しかし、対照的なこの二人が手を組んだことで、日本の蘭学が大きく発展したのは、紛れもない事実なのです。
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