坂本竜馬、西郷隆盛、大久保利通、桂小五郎、勝海舟…
幕末といえば、綺羅星のような大物が次から次へと現れた時代。そんな人々には知名度で劣るものの、当時の社会情勢に確かな影響を与えた人物がいました。それが薩摩藩主島津忠義の父・島津久光です。久光は何をやったのか、また、なぜ「藩主」ではなく「藩主の父」なのか。今回は島津久光についてご紹介します。
お家騒動
島津久光は文化14(1817)年10月20日、薩摩藩主島津斉興の5男として生まれました。大変聡明な子供であったという話が伝わっていますが、上には長男の斉彬がおり、久光は藩主候補から外れるはずでした。しかし、話はそうスムーズには進みませんでした。薩摩藩内部で斉彬と久光をそれぞれ藩主に推すグループがあり、この時期、薩摩藩では藩主の座をめぐるお家騒動が勃発することになったのです。この後継争いは久光の母の名を取り「お由羅騒動」と呼ばれ、大量の処罰者を出した結果、藩主の座は斉彬に決定しました。嘉永4(1851)年のことです。
「藩主の父」に
激動の時代へと日本が突入する中、斉彬は公武合体派の藩主として当時の政界を立ち回りました。あの西郷隆盛を見出したのもこの斉彬です。斉彬は藩主としての仕事を立派につとめたのです。
そんな兄を久光はどう見ていたか。実は、お家騒動こそあれ、斉彬と久光の仲自体は険悪ではなかったと言われます。それどころか仲のよい兄弟であったようなのです。その証でしょうか、斉彬は安政5(1858)年に急死するのですが、死に際して久光の息子忠義を次の藩主にせよとの遺言を残しました(※)。こうして久光の息子・島津忠義が薩摩藩の新しい藩主となり、久光は「藩主の父」として藩政に、さらには国政にも深く関わってゆくこととなるのです。
※斉彬の死はあまりにも急であったため、久光の陰謀によるものだったという説も存在します。
東奔西走
我が子が藩主となった久光は、兄斉彬の志を継いだ公武合体派の人物として行動を開始します。若き日の西郷や大久保利通を使って幕政にも関わりました。ともすれば暴発しかねない藩内の過激派浪士も抑え、藩をよく守りました。そんな久光が最も注目されたのは文久2(1862)年の上洛であったでしょう。
先ほど触れた通り、久光は公武合体論者でした。朝廷と幕府が手を取り合うことで、外国からの大波に対処できると考えたのです。そして、その実現のため朝廷に圧力をかけようと、兵を引き連れて京都へと上ったのが、文久2年の上洛というわけです。この上洛の行き帰りで久光は、日本史上にも有名な二つの事件に関わりました。
まず往路で関わったのが寺田屋事件です。当時、久光上洛の話を聞いた過激派の志士たちは、これを久光の倒幕挙兵と誤解して京都へと集っていました。彼らは朝廷と幕府の要人暗殺を企て、京都の寺田屋で会合を開きました。それを上洛中の久光の兵が小戦闘の末に鎮撫したというのが、寺田屋事件のあらましです。これによって久光は朝廷の信頼を得ましたが、実は寺田屋に集まっていた過激派志士たちの多くは薩摩藩出身だったのです。それを鎮撫した久光の部下ももちろん薩摩藩士であり、同胞同士による戦いという悲劇的な側面がこの事件にはありました。思想と暴力が入り乱れる幕末の京都。その幕開けを告げる出来事の一つが寺田屋事件であったと言えるのです。
復路で関わったのがあの有名な生麦事件です。武士の行列の前を馬で横切ったイギリス人が無礼であるとして、日本側の武士に斬殺された事件ですが、この武士の行列というのが久光の行列だったのです。この件に激怒したイギリス政府は賠償金の支払いを幕府と薩摩藩に求め、幕府は支払ったものの薩摩藩は支払いませんでした。結果、薩摩とイギリスは薩英戦争と呼ばれる戦いに突入したのです。
戦いの結果は薩摩の敗北でした。しかしイギリス側もかなりの損害を被りました。イギリスは薩摩の力を認め、薩英戦争の後、両者は急速に接近して行きます。明治維新における幕府対薩摩・長州の構図の裏には、幕府に肩入れするフランス対薩長に肩入れするイギリスという構図も隠されているのですが、薩英戦争はそんな構図が成立するきっかけの一つであったのです。
その後の久光
久光が歴史の舞台にクローズアップされるのはこのあたりまでです。他の有名人のように華々しい活躍こそ見せてはいないものの、久光は政治家として維新の進行に確かな役割を果たしました。制限の多い藩主ではない藩主の父という立場を活かし、フットワーク軽く当時の日本を動き回りました。維新の行く先に大きな影響を与えたターニングポイントに立っていた人物でもあります。藩主ではなく藩主の父。幕府の重役でもなく、西郷や大久保のように才能を武器に下級武士からのし上がったわけでもない。そんな島津久光は、絢爛たる維新の綺羅星とは異質な存在でしょう。しかしそれでも、維新史の中で不思議な光を放ちながら輝く一つの星であったと感じられてなりません。
維新後の久光は新政府の役職にもつきましたが、政府の方針とぶつかったことで隠居し、1887(明治20)年に亡くなりました。最後まで帯刀と丁髷のスタイルをやめなかったと伝えられます。
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