昨今、世の中は健康ブームで賑わっています。いかにして自分の身体を健康に保つか。長生きをするか。そんな方法を紹介したテレビ番組や書籍は大人気です。
そんな健康ブームを先取りしたかのような書物が、江戸時代にありました。その名も「養生訓」。著者は貝原益軒という儒学者でした。
波乱の若年期
貝原益軒は寛永7(1630)年11月14日に、福岡・黒田藩士の五男として誕生しました。幼い頃から聡明であったと言われ、長じて藩に出仕したものの、藩主の怒りに触れて浪人となります。この時の経緯はよく分かりませんが、次の藩主に許されて再び藩に出仕することとなっています。
再び藩に出仕した益軒は、すぐに京都へ遊学することを命じられました。当地では伊藤仁斎や木下順庵といった大学者とも交流を持ち、益軒は儒者として大きく成長してゆきます。やがて藩へと帰った益軒は、藩における学問の総責任者として活躍することとなるのです。
「自分の経験にもとづく」
益軒が役目を退いたのは、70歳も過ぎてからのことです。しかし、益軒がその本領を発揮するのは、実はそこからなのです。藩の職務から解放され、著述業に専念し始めた益軒は数多くの書物を著しました。そのうちの一点が冒頭に述べた「養生訓」です。
「養生訓」は言ってみれば健康指南の書。益軒が自らの経験にもとづき、心身の健康を維持する方法をまとめたものです。身体の健康に関する記述を見てみると「食事の味付けは薄味がよい」「肉類はほどほどに」「運動不足はいけない」「酒は適量を守れ」などといったもの。なんだ当たり前のことじゃないか、と思われるかも知れませんが、それは現代に生きる私たちだからです。江戸時代とは、健康ブームどころか健康法という概念そのものがあやふやだった時代。そんな時代に現代でも言われているような健康法を書き残したのは驚くべきことではないでしょうか。また、注目したいのは益軒が「自分の経験にもとづき」これを書いたということです。「自分の経験にもとづく」とは、学問用語で言えば実証主義にあたります。当時は江戸時代の初期〜中期で、学問といえばやはり先人の書いたものや考えたことが絶対。それに疑いを差し挟むというのは非常に勇気のいることでした。そんな時代に益軒は、「健康」へ実証主義的なアプローチを試みたと言えるのです。
もう一つ、益軒の代表作に「大和本草」という書物があります。これは、日本の植物や動物、鉱物といったものを益軒自らが調べ、まとめあげたもの。現代風に言えば動植物図鑑といったところでしょうか。当時、このような図鑑といえば「本草綱目」という書物が絶対視されていました。ところが、実はこの「本草綱目」、中国から渡来した書物でした。となれば、内容はもちろん中国の動植物の紹介。日本の動植物とは「ずれ」が出てきます。当時の学者はそれに気がつきませんでしたが、益軒はこのずれに気付きました。そうして、日本版「本草綱目」として「大和本草」を作り上げたのです。正に自分の経験、自分の目と耳を大切にする益軒の面目躍如といったところです。もちろん、この「大和本草」は後世の学者たちに大きな影響を与え、日本の本草学の発展に大きく貢献することとなります。
江戸の実証主義者
もう一つ、益軒の著作の特徴として「易しい言葉で分かりやすく書かれている」という点があります。「養生訓」などの著作は特にその傾向が強く、庶民を意識して書かれたことがよく分かります。健康法は多くの人に伝えられねば意味がない、ということを、益軒はしっかりと意識していたのです。こんなところにも、形ではなく実を大事にする益軒の考え方がよく表れています。
江戸の昔に実証主義をつかんでいた貝原益軒。そんな貝原益軒の学問は「益軒学」とも言われます。当時の学問の流れにはない柔軟な考え方は、藩主の怒りに触れた浪人時代、大学者と交わった京都時代に芽生え、長い儒学者生活のうちに成長していったのでしょう。自らの経験をもとに物事を整理・分析してゆく。近代科学にも通じる考え方が、江戸時代の益軒学の中に、確かに息づいていました。江戸期における益軒のような学者の存在が、幕末・明治の日本人が西洋思想を吸収する一助となったことは、想像に難くありません。
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