12月は有名人の当たり月とも言える月。誰もが名を知るような人物が多く誕生しています。そんな中でも興味深いのは、14日生まれのブラーエと25日生まれのニュートン、そして27日生まれのケプラーです。ブラーエは天文学者で当時としては驚異的な精度の天体観測データを作成した人物。ニュートンは万有引力など多数の科学的発見をした人類史上最大の科学者のひとり。そしてケプラーはブラーエの弟子にあたり、ニュートンの万有引力発見にも影響を与えた「ケプラーの法則」の発見者でもあります。12月生まれの科学者3人。ブラーエ、ニュートン、そしてその二人を接続する位置に立つケプラー。今回はこのケプラーにスポットを当てます。
宇宙の秩序
ケプラーは1571年12月27日に生まれました。家はかつて名家であったということですが、父の代には零落し、貧しい暮らしをしていました。
ケプラーは誕生後、プロテスタントとして洗礼を受け、やがて修道院附属の学校へと進みます。非常に信仰心の篤い生徒であったようで、大学は神学部。牧師になるための勉強をしていました。しかし、その信仰心とは別に、彼には大きな才能がありました。数学です。周囲の説得もあり、ケプラーは牧師ではなく数学教師という職を選択しました。信仰と数学。この二つがケプラーという希有な科学者を生み出す原動力となります。
ケプラーは教えること自体はあまり上手くなかったようですが、教職にある間、自らも研究も行いました。やがて彼は惑星の運動について深い興味を持つようになり、ある信念に基づいてその問題の解決を試みます。その信念とは「惑星の運動には必ず秩序があるに違いない」ということ。現代ならいざ知らず、惑星の運動などについて体系的な解明がなされていなかった当時としては、単なるあてずっぽうに近い信念です。しかしケプラーはこれを信じました。神が創った宇宙ならば、そこには美しい秩序が隠されているに違いないと。そして、この強い信仰心とケプラーの数学的・天文学的才能が結びつき、史上に残る大発見がなされるのです。
ブラーエとの出会い
ここで登場するのがティコ・ブラーエです。ケプラーは当時ドイツのグラーツという街に住んでいましたが、この街でプロテスタントへの弾圧が行われました。ケプラーは街を去らざるを得なくなりましたが、そんなケプラーを招き入れたのがプラハのティコ・ブラーエでした。当時のブラーエは既に大学者で、多数の弟子を率いて膨大な観測データを握っていました。それらのデータを整理・分析する優秀な人材を求めていたところに、ちょうどケプラーの話を耳にしたというわけです。
ところがこのブラーエ、ケプラーを招いたはいいが、ケプラーに自分の持つデータを自由にさせることはしませんでした。優秀な人材を求めていたものの、ケプラーがあまりに優秀過ぎたため、自分のデータから生まれた成果を全てケプラーに独り占めされると危惧したからだと言われます。当時ヨーロッパ一とも言われる観測データ群を作り上げたブラーエをしてこれなのですから、ケプラーの数学的センスがどれほど優れていたか分かるというものです。ともあれ、ケプラーがブラーエのデータを全て引き継いだのは来訪の一年後、ブラーエの死後のことでした。
ケプラーの法則
ここからケプラーは科学史に残る大発見を成し遂げます。ケプラーは火星の運動について特に注目しました。そして、観測値と予測値のわずかな差から火星が楕円運動をしていることを突き止めます(ケプラーの第一法則)。しかしここでケプラーは一つの疑問に行き当たります。それはなぜ火星が楕円運動をしているのか、ということでした。当時、惑星は全て円運動をしていると考えられていました。美しい円を描き、一定の速度で惑星は運行する。宇宙の調和を信じるケプラーにとってはそれが最も飲み込みやすい理論だったでしょう。ところが観測データはそれと異なる結果を示しました。惑星は楕円を描くように運動し、運行速度も一定ではないと。ケプラーはそれを否定することはしませんでした。否定ではなく、その楕円運動の中に秩序と調和を発見することに力を向けたのです。そうして莫大な労力を費やし、ケプラーは発見しました。それが、太陽と惑星を結ぶ線が単位時間に描く面積は常に一定であるという法則、すなわちケプラーの第二法則でした。
境目の男
その後もケプラーは研究を続けました。結果、惑星の公転周期と太陽との距離の関係を明らかにしたケプラーの第三法則の発見をはじめ、酒樽の容積の研究から微積分法への道筋をつけるなど、さまざまな業績を残しています。これらの成果の意義は大きく、特にケプラーの三法則は後のニュートンの業績に深く関わる法則です。信仰と科学の境目が判然としなかった時代、それらの調和にこだわったケプラー。その後、科学は信仰と一定の距離をおいて発展してゆきますが、彼はその境目の時代に生まれ、境目の時代のやり方で巨大な成果を残すという難事業を成し遂げた人物なのです。
|