日本初の詳細な全国地図を作った人物、伊能忠敬。彼はもともと学者でも何でもなく、一人の商人でした。そして地図作りに立ったのも、実は本業を引退した後の50代から。今風に言えば穏やかな老後を過ごすばかりであった忠敬が、後の世を驚嘆させた全国地図を作り上げるまでの道のりを、今回はご紹介します。
成功者の隠居
伊能忠敬は延享二(1745)年1月11日、上総国(現在の千葉県)に誕生しました。幼い頃から聡明で、算術などの得意な子だったといいます。そんな忠敬は17歳の時に伊能家へと婿入りしました。伊能家は地元では有名な酒造家。つまり、これより後、忠敬は商人として人生を歩むこととなるのです。
商人としての忠敬は有能でした。実は忠敬が婿入りした当初、伊能家の商売は決して順調とは言えない状況だったのですが、忠敬はそれを見事に立て直しました。当時よく水害を起こしていた利根川の堤防改修工事を行ったり、いわゆる天明の大飢饉では炊き出しによって窮乏した村人を救ったりと、地元のためにもよく尽くしました。忠敬は商人として申し分ない人生を送り、財産と人望の両方を築くことに成功していたのです。
長男が成長し、家業も一段落ついた頃、忠敬は商売の一線から退きます。退いた後、算術や暦学といった学問を始めるのです。忠敬の少年時代は非常に聡明だったといいますから、もしかしたら、かつては学問の道に進むのが夢だったのかも知れません。本業における自分の役割を果たし、いよいよ学問の道に挑戦しようとした時、忠敬の心境はいかばかりであったでしょうか。
やがて忠敬は家督を長男へ譲り、完全に隠居して江戸へと引っ越します。50歳になっていました。
学問への情熱
江戸に移り住んでから1年、忠敬の人生に最大の転機が訪れます。幕府天文方・高橋至時(よしとき)に弟子入りしたのです。
高橋至時は当代一と言われた大阪の暦学者・麻田剛立の弟子にあたる学者です。当時幕府は改暦計画を進めていたのですが、その担当者として至時は江戸にやって来ていました。
至時自身も優秀な学者で、中国の暦法に加え当時日本に入ってきていた西洋の暦法にも通じていました。忠敬はそんな至時についてめきめきと自分の実力を伸ばしてゆきます。50歳を過ぎて衰えない能力と好奇心、熱意に、至時も驚嘆したに違いありません。
ある時忠敬は地球の緯度1度の長さはどれくらいかという問題に興味を持ちます。これを自宅近くの町内を歩測(歩幅によって測ること)することで求めようとしたのですが、どうにも上手くいきません。測る距離が短過ぎたことが原因の一つでした。そこで師の至時に相談したところ、至時は当時幕府が進めようとしていた蝦夷地の測量事業に忠敬を推挙します。蝦夷地測量に出れば、その機会を利用して長距離の測量データが得られる。そのデータがあれば、緯度1度の長さを求めることが可能だと至時は考えたのです。もちろん主目的である蝦夷地測量の仕事もきっちりこなさなければなりませんが、至時は忠敬にその実力は充分にあると考えたのです。
かくして忠敬は蝦夷地測量の旅へと出発しました。忠敬55歳のことです。
地図の完成
忠敬は蝦夷地測量をしっかりとこなしました。得られたデータをもとに、江戸へ戻ってから作成した地図の詳細さは幕府を驚かせました。これにより、忠敬は幕府から全国地図の作成を命じられることとなります。
測量の旅に出ては江戸へと戻り、また準備を整えて測量の旅に出る。そんな暮らしが続きました。その間に、39歳という若さで師の至時も亡くなりました。測量の全てが終わったのは17年後、忠敬72歳の年です。
測量を終えた忠敬は地図そのものの作成にも関わりますが、完成を見ることなく、文政元(1818)年に74歳でその生涯を終えます。忠敬の死は公にされず、地図作成は続行されました。忠敬の死の3年後、忠敬の弟子や至時の息子の景保らの手によって地図は完成し、それと共に忠敬の死も公表されました。
完成した地図は「大日本沿海輿地図」と名付けられ、幕府に提出されました。事実上、初の全国地図です。その正確さは驚くべきもので、当時の世界水準をはるかに上回っていました。現在の人工衛星によって測量された地図と比べても、誤差は数キロメートル程度です。ただ、この地図が有名になるのは幕末に入ってからのことで、それまで歴史の表舞台に登場することはほとんどありませんでした。1828年のいわゆるシーボルト事件において、シーボルトが国外に持ち出そうとした地図が「大日本沿海輿地図」であったというのが最も知られる事柄でしょうか。「大日本沿海輿地図」は長い間ほとんど封印状態だったと言えます。地図の恐るべき正確さに、幕府も扱いに困ったのかも知れません。
明治に入ってから、「大日本沿海輿地図」は日本の標準の地図として利用されるようになりました。後世の人々にとってさえ、忠敬の地図以上の地図を作ることは困難だったのです。
最初に述べた通り、学問の道へと人生の舵を切ったのは忠敬が本業を引退してから、50歳も過ぎてのことでした。72歳まで17年間も続けられた測量の手段は歩測が主です。決して若くはない年齢から、こつこつと長い時間をかけて難事業を進めた伊能忠敬。一生の時間が長くなった現代だからこそ、彼の人生から学ぶべきことは多いように感じられます。
ところで、忠敬が旅立つきっかけとなった緯度1度の長さ。これは測量事業の初期の内に算出が終えられています。その値、28.2里。現在知られている値との差は、わずかに0.2〜0.3%にすぎません。
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