歴史は連続しています。書物などを紐解くだけではなかなかその実感が湧きませんが、意外なところで意外な人物が関係を持っていたりすることはよくあります。
今回紹介するのは江戸時代に日本にやってきた外国人の筆頭格・シーボルト。1月の伊能忠敬の項でも触れましたが、シーボルトは地図を通して忠敬と関わっています。それだけではありません。ほかにもさまざまな点で、日本史の中に影響を及ぼしているのです。
東洋へのあこがれ
シーボルトは1796年2月17日にドイツで生まれました。代々医師の家柄で、シーボルト自身も医学を修めています。早くから東洋への興味が強かったらしく、軍医として東南アジア入りし、やがて長崎の出島へと赴任しました。1823年のことです。
日本に落ち着いたシーボルトは日本研究を開始しました。研究内容は幅広く、日本の動植物、鉱物、風土などとにかく日本に関するさまざまなことを研究したようです。東洋に興味を持っていたシーボルトにとっては、日本で目にするもの全てが研究対象であり、深い興味をひかれたことでしょう。
さて、当時の日本は蘭学の成長期でした。ことに医学の分野では西洋の合理的・経験的な手法が注目されており、学者たちは西洋の医学知識を渇望していました。そんな情勢でしたから、シーボルトの噂が国内に広まるのも時間の問題でした。シーボルトの教えを乞おうとする新進気鋭の蘭学者達が、次第に出島へと集まり始めたのです。
日本生活は楽し
シーボルトのもとを訪れた学者たちのため、今の長崎市の郊外にあたる鳴滝という土地に私塾が開設されました。私塾でシーボルトは医学や語学などを教えました。面々には高野長英、二宮敬作、伊東玄朴、石井宗謙らがあります。シーボルトの教え方は独特で、弟子一人ひとりにあった課題を出し、その課題に対する論文をまとめさせるというものでした。論文はオランダ語で提出させたため、弟子たちは語学の練習になりましたし、シーボルト自身も弟子の論文を通して日本の知識を吸収するというわけです。こうして鳴滝の私塾は賑わい、多くの学者たちが西洋流の学問を身に付けたのです。また、滞日中、シーボルトは楠本お滝という遊女との間に一女ももうけました。シーボルトの日本生活は正に順風満帆だったでしょう。しかし、そんな日々はやがて終わりを告げます。
シーボルト事件
日本へ来て5年後の1828年、任期切れのためシーボルトは帰国することになりました。しかし、その時にあるトラブルが発生したのです。シーボルトが日本から持って出ようとした荷物の中に、かなりの数の持ち出し禁止品が含まれていたのです。その中の一つこそが、あの伊能忠敬地図の複製でした。地図の流出とは他国に自国の地形を把握されること。当時にあっては国防上の大問題であったのです。このことが原因でシーボルトは円満に離日することかなわず、およそ1年後、追放という形で日本をあとにしました。日本への再入国も禁止されました。これが後にシーボルト事件と呼ばれる事件です。
シーボルトが残したもの
シーボルトが日本にいたのは追放されるまでの6年間でしたが、彼がその間に残した日本史とのかかわりはなかなか興味深いものがあります。シーボルトが持ち出そうとしたものは伊能忠敬の地図ですが、その地図をシーボルトに提供した人物は高橋景保といいます。そう、伊能忠敬の師であった高橋至時の息子です。景保は忠敬の死後、未完成であった地図の作成を受け継いだ人物のひとりであり、その関係から地図をシーボルトに渡すことが出来たのです。しかしこの事件のために彼は幕府に捕まり、やがて獄死しました。忠敬の地図作りへの情熱が、時を超えて師の息子を死なせる原因になったとすれば、酷なことですが歴史の奇縁というものを見て取れます。
門人たちの中にも高野長英という有名人がいます。シーボルト一門の中でもとびきりの秀才であった彼はシーボルトの帰国後、語学力や医学知識を活かしさまざまな書物の執筆・翻訳を行いました。その中の「戊戌夢物語」という一冊が幕府の排外政策を批判するものだったために捕縛されます(蛮社の獄)。長英は一度は逃亡に成功するものの、結局は捕まって非業の死を遂げました。「戊戌夢物語」は排外政策批判の書としては決して出来のいいものではなかったようですが、多くの知識人に読まれました。当時の思想界に与えた影響も小さくはなかったでしょう。執筆者である高野長英の根底には、シーボルトから得た西洋的思考法、西洋知識があったのですから、やはり歴史の奇縁です。
さらに、シーボルトが滞日中に生まれた娘。彼女の名は楠本いねといいます。シーボルトが去った後、いねは父と同じ医の道を志します。江戸時代に女性が職業を、しかも医業を目指すということは並大抵のことではありません。ましてや当時では極めて珍しい西洋人と日本人の混血であり、過酷な差別にも遭ったことでしょう。しかし彼女は立派にやり遂げ、明治に入ってから東京で産科医院を開業しました。日本近代史上、おそらく第一号の女医でしょう。
※医師免許制度が確立されていなかったため、公認の女医第一号は別の人物です
歴史のつながり
シーボルト事件の表面だけ見ると、出島にやってきた外国人が日本史をただ通過しただけというような印象を受けます。ところがそんなことは決してありません。ここに紹介したエピソードだけではなく、彼の蒔いた西洋思想という種は散っていった門人たちによって受け継がれ、ひいては開国前後の日本にも確かな影響を与えたはずです。歴史の連続性というものを分かりやすく教えてくれる存在。それがシーボルトという人物ではないでしょうか。
その後のシーボルトについて少しだけ触れておきましょう。実はシーボルトは幕末に再来日しています。シーボルトの帰国から約30年後、日本は開国され、シーボルトの追放も解かれました。それをきっかけにシーボルトは幕府に招かれて、再び日本の土を踏んだのです。この時、門人や楠本お滝、実の娘いねとも再会したようです。来日後は幕府の仕事をしていましたが上手くいかず、わずか一年で帰国し、故郷のドイツで病死しました。
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