今回は江戸後期の読本作家、滝沢馬琴をご紹介します。
読本とは挿し絵の少ない物語本で、現在で言うところの小説に近いものと言えるでしょう。馬琴はその読本のベストセラー作家でした。現代の作家も個性的な人が多いようですが、江戸の馬琴もそれに負けていなかったようです。滝沢馬琴とはどんな人物だったのでしょう。
馬琴出奔す
滝沢馬琴は明和4(1767)年6月9日、江戸の下級武士の家に生まれました。馬琴は作家になってからのペンネームで、本名は興邦、あるいは解といいます。ちなみにこの馬琴というペンネームは正式には「曲亭馬琴」。「滝沢馬琴」という呼び方は本名とペンネームの組み合わせで、後世に使われるようになったもののようです。ただ、現在でも多くの書籍・資料で「滝沢馬琴」の名が使われていますのでここでは滝沢馬琴と表記します。
馬琴は少年時代に兄、父と死別しています。馬琴の家は下級武士でしたが、この下級武士というのは旗本の用人家でした。用人とは武士とは言え立場的には武士の召し使いにあたります。武士と庶民の中間的な存在と言えるかも知れません。父を失った馬琴はわずか10歳で主家に仕えることとなりました。
ところがこの主家の主人というのがあまりいい人物ではなかったようで、14歳の時に馬琴は主家を飛び出してしまいました。
放浪の時代
その後の馬琴は職や主家を替えながら転々と暮らします。本格的な作家活動に入るまでに経験した職業は占い師や俳諧師、果ては医師見習いまでさまざま。馬琴は青年時代を、江戸の町を放浪しながら過ごしたのです。
しかし馬琴はどうしようもない馬鹿者であったというわけではないようです。医師見習いを経験していることから分かるように、頭脳は明晰でした。後の読本作品にも詰め込み過ぎというくらいに持てる知識を詰め込んでいます。体格もよく、力も強かったようです。また、この放浪時代に母と死別していますが、その看病も熱心にしました。馬琴とは武士ならではの文武両道の面と、放浪生活を送ってしまうような放蕩の面と、二つの異なる面を持った人物であったのです。そんな内面の複雑さこそが、作家としての馬琴に力を与えたのかもしれません。
山東京伝に弟子入り
さて、職を転々とする中、馬琴は俳諧や物語の執筆を始めます。この執筆活動が縁で、馬琴は当時の大作家である山東京伝への弟子入りできることになりました。馬琴が20代半ばのことです。時は折りしも寛政時代で、松平定信による寛政の改革が進行中でした。当代一の流行作家であった山東京伝は幕府に風俗を乱すとして目を付けられており、執筆ができない状態にまで追いやられていました。そんな事情から、馬琴はひとまず京伝の代作者として、読本作家としての本格的なキャリアをスタートさせることになります。
やがて馬琴は出版者の紹介で結婚もし、代作者ではなく独立した作家としてのヒット作も生み始めました。出版ごとに作品は評判を呼び、ついに馬琴は師の京伝と肩を並べるまでの作家へと成長するのです。ちなみに、作家として花開いた後の馬琴は京伝を強く意識していたようで、著作には京伝を牽制するような記述も見られます。馬琴の気の強さが伺い知れるエピソードです。
大長編「南総里見八犬伝」
馬琴の作風は勧善懲悪、因果応報の整ったもので、筋立ても非常に整然としていました。そんな馬琴の集大成とも言える作品が、かの有名な「南総里見八犬伝」です。
詳しい内容は省きますが、この作品は全98巻の大長編。何と28年にも渡って書き続けられました。執筆の途中で馬琴は失明し(目の酷使が原因と言われています。馬琴は締め切りや約束を守る人で、多作でもあったため、作家生活の中で目を傷めてしまったのでしょう)、執筆できなくなるというトラブルにも見舞われました。それでも馬琴は息子の嫁に口述筆記させてこの作品を書き続けたのです。この嫁はもともと読み書きの素養がなく、馬琴がそれを教え込んで口述筆記させたといいます。口述筆記の態勢が整うまでかなりの苦労があったと推測できます。また、馬琴と共同作業している嫁に対し、馬琴の妻が嫉妬して嫁を苛めるということも起きました。それでも書き続け、遂に完成させたのですから、これは馬琴の執念というほかありません。
江戸に「作家」がいた
放浪生活から作家への弟子入り、自らも大作家となり、失明しても書き続ける。馬琴の人生は正に波乱万丈です。そんな人生の風景に、武家出身の一徹さ、生来の聡明さ、気の強さ、頑固さ、さまざまな要素が溶け合い混じり合って、作家・滝沢馬琴が生まれたということでしょう。作家らしい作家が、既に江戸時代にいたのだという思いがします。
馬琴が亡くなったのは嘉永元(1848)年の11月6日。南総里見八犬伝完成の7年後でした。
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