榎本武揚。この名を聞いてどのようなイメージが浮かぶでしょうか。忠臣、裏切り者、あるいは何のイメージも湧かないという人もあるかも知れません。かの福沢諭吉は、五稜郭で新政府軍に抗戦しながら、後にその新政府内で栄達を果たした武揚を二君に仕えた不義理者としてこき下ろしました。果たしてそれは真実なのか。
幕末の激動期に、実に珍しい面白い経歴を送った榎本武揚の人生を、今回はご紹介します。
英才教育
榎本武揚は天保7(1825)8月25日、幕臣の息子として生まれました。父は榎本武規といい、幕府の天文方に勤めた学者でした。若い頃にはあの伊能忠敬に付き従って測量にも出かけたと言いますから、地理学や天文学の第一人者であったと言ってもいいでしょう。武揚も学者の息子らしく英才で、幕府公認の学問所である昌平坂学問所や、中浜万次郎(ジョン万次郎)の英語塾で学問を修めます。さらに、海軍力増強をめざしていた幕府が建設した海軍伝習所に入学し、海軍知識も蓄えたということですから、当時としてはかなり先進的な教育を受けていたのです。ちなみに、伝習所の先輩に勝海舟がおり、武揚とは親交がありました。
さて、その後武揚は幕府の留学生の一人としてオランダに渡ることとなります。オランダに渡った武揚は海軍や国際法、造船などの知識を大いに学んで帰国。やがて幕府の海軍副総裁というきわめて重要な地位を与えられました。時に慶応4(1868)年……
武揚、叛旗
時代は激動の中の激動期を迎えていました。1868年と言えば歴史上は明治維新の年。将軍徳川慶喜による大政奉還がなされ、戊辰戦争が勃発した年です。武揚も幕府海軍の幹部として抗戦しましたが、時代の流れはすでに幕府にはありません。武揚は徹底的に戦うべきだと主張しましたが、その叫びも届かず江戸城は無血開城され、幕府海軍も新政府軍に引渡されることとなります。
ところが武揚はこれに逆らいました。品川沖に碇泊していた軍艦を率い、江戸を脱走したのです。幕府の優秀な海軍を握る者として、幕府直属の家来(直参)として、戦う力を残しながら敗れるということが我慢できなかったに違いありません。
脱走した武揚は蝦夷地(北海道)をめざします。新政府に抵抗を続けていた東北の武士たちを吸収し、土方歳三率いる新選組を吸収し、大軍勢となった武揚らは蝦夷地に入ります。当地では箱館の五稜郭を根拠地としました。
箱館の地で武揚とその同志らは独立政権の建設を画策します。箱館駐在の外交官などに一政権としての権限を幾つか認めさせたほか、政権の幹部を決める選挙まで行われたのです。武揚の豊富な国際法や外交、政治知識が存分に発揮された出来事と言えるでしょう。選挙の結果、武揚は政権の総裁に就任しています。
新政府軍の攻撃に抗い、武揚の政権は奮戦しました。新政府軍に相当の打撃を与えたものの、やがて武揚らは降伏し、五稜郭は落城します。
降伏に際し、一つのエピソードが残っています。武揚は五稜郭にオランダの貴重な国際法の書物を持ち込んでいました。いよいよ五稜郭落城という時、それを新政府軍の参謀だった黒田清隆(後に総理大臣)に送ったのです。戦いで失われるのは日本の損失であると考えたのでしょう。ここに彼の一つの精神が見て取れます。
新政府での栄達
降伏後の武揚は、他の同志らとともに東京へ移送され、裁きを待ちました。旧幕府から軍艦を奪い、独立政権建設を企て、新政府軍と交戦までしたわけですから、当然政府内の意見は榎本死罪に傾きます。ところが、そんな武揚を救ったのが黒田清隆でした。いよいよ敗戦という時に貴重な書物を敵将に送ったその行動を、彼は評価していたのです。黒田清隆は武揚を救おうと新政府内を駆け回り、とうとう武揚の死刑は回避されました。
その後の武揚は黒田の強い勧めで新政府に出仕し、重要ポストを歴任します。北海道の開拓調査に功績を挙げ、またロシアとの樺太・千島交換条約を成立させました。さらに外務省に勤め、海軍卿となり、逓信(郵政)大臣となり、農商務大臣となり、文部大臣となり……当時の新政府といえば、昇進には出身が強く影響しました。すなわち薩摩・長州の閥でなければならない、ということです。そんな中で江戸出身、しかも旧幕臣の武揚は異例の栄達を遂げたということになります。はじめこそ黒田の努力で生き延びたものの、その後の栄達はやはり武揚の類希なる能力があったからこそでしょう。また、榎本武揚という人物は非常にさっぱりとした性格で、権謀を弄するようなことは決してなかったと言われます。藩閥のしがらみが強い中で、そういう武揚の人柄が信頼され、空白のポストへと担ぎ出されたということもあります。それにしてもついた役職の多様なこと。ある意味「便利屋」だったのですが、武揚はきっちりと与えられた役目をこなし続けました。
冒頭で述べた福沢諭吉の見方は、後世での武揚に対する見方にも通ずるものがあったでしょう。しかし、箱館での書物のエピソード、そして明治の世での栄達の仕方を考えるに、それが一面的な見方であるのは確かなようです。
晩年の武揚は公職を退き、穏やかな隠居生活を数年送りました。1908年の10月26日に、72歳で亡くなっています。
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