日本で有名なキリスト教宣教師といえば、あのフランシスコ・ザビエルがまず挙がることでしょう。16世紀の中ばに日本を訪れたイエズス会の宣教師です。ザビエルの伝道活動は戦国日本に一定の影響を与え、キリスト教の信者となった大名(キリシタン大名)も出現しました。さらに、島原の乱発生、隠れキリシタン弾圧と、キリスト教が禁教化した後世にまでその影響は及んでいます。
このように、ザビエルの伝道活動はかなりの成果をおさめましたが、さらなる伝道をめざし、彼は一つの考えを抱くようになります。それは「中国にキリスト教を伝道する」という望みです。中国文化に大きな影響を受けた日本への伝道には、中国への伝道が必要と判断したのです。しかし、その望みがかなう前に、ザビエルは生涯を終えました。
そのザビエルの死から約30年後、中国への伝道を志して中国へ入った宣教師がありました。それが、マテオ・リッチです。
中国へ!
マテオ・リッチは1552年10月6日、イタリアに生まれました。イエズス会に入会してから天文学や数学を身に付け、26歳の頃にアジアへと旅立ちます。はじめインドでの伝道活動を行い、その後マカオへと入り、中国語などを学びました。
イエズス会とはカトリックの修道会ですが、創設時から世界各地への伝道活動ということに熱心でした。中でもインドは重要な土地で、ザビエルもはじめはインドで伝道を行い、その後日本にやってきています。リッチもそのルートを辿ったということになります。もちろん、リッチが伝道を目指したのは日本ではありません。広大な中国でした。
キリスト教伝道作戦
当時の中国は明朝の時代にあたります。マカオに入ったリッチは、そこから中国南部の土地を渡り歩き、やがて南京に定住しました。その間、彼は中国語や中国の習慣を学び、中国の服を着て中国風の生活を送りました。また、儒教への造詣も深め、キリスト教を中国古来の習俗とすり合わせる道も探っています。これがキリスト教伝道のための、彼の「作戦」でした。
もちろん相手に合わせる一方ではありません。自らもヨーロッパで身に付けた科学知識を披露し、また時計などヨーロッパの珍しい産物を役人に送ることなども行いました。こうしてリッチは中国人との交流を深め、知識層を中心にその支持を増していったのです。
こうした活動を続け、中国在住も20年になろうかという頃、リッチは遂に皇帝と会うチャンスを得ます。皇帝と会ったリッチは中国でのキリスト教伝道についての正式な許しを得、ここに中国での正式なキリスト教伝道が開始されました。1601年のことでした。
伝道活動と交流活動
その後、リッチは北京に教会を建てて伝道活動に尽力しました。
キリスト教とかかわりのないことを上手く利用したリッチの伝道は、ある意味「不純」と取られる部分もあるかも知れません。しかしその一方で、国際感覚や権利意識の確立していない時代にあって、中国人に溶け込み、また自らの素養を活かした「交流」を重視したリッチの活動は、大変に意義深いものであったと言えるでしょう。
リッチの行った交流活動は、学問分野を中心に多岐に渡ります。書物についてはユークリッド幾何学を訳した『幾何原本』などの数学書、また天文や測量に関する書物など、さまざまな書物の中国語訳に協力しました。もちろんキリスト教の教本も出版しました。中国に初めて世界地図を持ち込み、「坤輿(こんよ)万国全図」として出版もしました。また、それらに加え、中国の文化をヨーロッパに紹介することも行っています。伝道の域を超えているとも感じられるこれらの活動を鑑みるに、東西の懸け橋としての役割を、リッチは自らに課していたのかも知れません。
これらの業績は当時の中国に大きな利益をもたらしたほか、海を越えて日本にも伝わり、学問的な影響を及ぼしました。また、リッチのあとに続いた宣教師たちも、さまざまな学問や芸術における交流を行っています。
1610年5月11日、マテオ・リッチは亡くなりました。当時の皇帝はその死に際し、立派な墓を作らせています。
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