今回の人物伝は戦国時代の超大物、武田信玄をご紹介します。現代においてさえその名を知らぬ者はないほど有名な人物ですが、上杉謙信との川中島の合戦のイメージが強く、それ以外の部分は余り知らないという方も案外多いかも知れません。死亡するまで天下に最も近いと目された男は、いかにして戦国を登り詰めていったのでしょうか。そして、彼の死により、戦国はどう動いたのでしょうか。
クーデター発生!
武田信玄が生まれたのは大永元(1521)年の11月3日。武田氏は甲斐(今の山梨県)に代々続く名家で、信玄が生まれた頃は大名としての確固たる勢力を保持していました。
若き信玄はこの甲斐を父(武田信虎)から継ぎますが、その過程は円満なものではありませんでした。それは父を甲斐から追放するという手段でした。武田家の家督を強引に奪い取る、言わばクーデターです。原因は父の強権的な領国統治に反発したためとも、父との不仲のためとも言われますが、はっきりしたことはわかりません。あるいはその両方だったのでしょう。
ともあれ、信玄の戦国大名としてのキャリアは戦国らしい「下克上」によって本格的な幕を開けたのです。
※信玄の名は出家後の法名で、それまでは晴信と名乗っていました。しかしここでは分かりやすくするため、全て信玄の名で統一します。
川中島、そして
甲斐の実権を握った信玄は、十年をかけて隣国信濃を平定しました。この時、信濃に勢力を張っていた村上義清という人物が越後へと逃れ、当時長尾景虎と名乗っていた上杉謙信に助けを求めます。その結果起こったのが、あの有名な川中島の合戦でした。
川中島の合戦は一度の合戦ではありません。十年以上に渡って、計五回戦われました。と、言ってもほとんどが睨み合いで、実際に大きな戦闘があったのは第四次の合戦のみ。「啄木鳥戦法」や「車懸りの陣」、「信玄と謙信の一騎討ち」などの有名な戦術やエピソードは(歴史上実際にあったかは別の話として)この時のものです。
さて、この川中島の合戦の十年間に、戦国を揺るがす大きな出来事がありました。織田信長の台頭です。信長は駿河の大大名であった今川義元を桶狭間の戦いで破り、戦国の世に名乗りを上げたのです。これは、その後の信玄の戦略を大きく左右する出来事でした。今川義元は駿河の大名であり、駿河とは甲斐の隣国だったからです。
義元という柱を失った今川は勢いを徐々に失っていきました。武田は信玄の父の代に今川との同盟を結んでいましたが、信玄はそれを破棄し、駿河へと侵攻します。やがて信玄は駿河を併呑し、武田氏は甲斐、信濃、駿河ほか、東国を中心に広大な領地を持つ戦国有数の大名となったのです。
巨星墜つ
しかしこの間、織田信長も大きな力をつけていました。信長の動きに対し危機感を募らせる大名は多く、信玄ももちろんその一人でした。そんな折、当時の将軍であった足利義昭(まだ室町幕府は存在していました)が中心となって大名たちが連合し、信長を討伐するという計画が持ち上がります。信玄はこれに呼応し、将軍の膝元である京へ赴くことを決心しました。信玄は大軍とともに甲斐を発ち、京へと向かいます。ちなみに、その途上において信玄は、信長と協力関係にあった徳川家康と交戦しています。もちろん、若き家康はこれ以上ないというほどこてんぱんにやられ、やっとの思いで逃げ帰りました。これが「家康は恐怖の余り馬上で脱糞した」というエピソードで戦国ファンにはお馴染みの三方ケ原の戦いです。
ほどなく京へ至り、信長と激突するかと思われた信玄。しかし、終局は唐突に訪れました。家康を破り、さらに追い詰める進撃の途上において信玄は発病し、遂に京に至ること叶わず、甲斐に戻ることもなく、そのまま亡くなってしまうのです(戦傷によるものという説もあります)。元亀4(1573)年のことでした。
新世代へ
以後、時代は織田信長や豊臣秀吉、徳川家康ら新世代のものへと移り変わります。信玄亡き後、信長に対抗する勢力は特になく、信長は順調に勢力を伸ばしました。武田家は息子の勝頼が継いだものの、長篠の戦いにおいて信長に大敗を喫し、やがては滅亡してしまいます。信玄という巨星が消えたことで、信長という巨星が輝き始める結果になったと言えるでしょう。
信玄と信長は遂に直接まみえることはありませんでした。両者がもし正面から激突していたら……いえ、それを言うのは野暮というものかも知れません。信玄が先に生まれ、信長が後に生まれたということも、言わば信長の生まれ持った一つの強さでした。
そう、いつ生まれたかということすら運命を左右するのが乱世なのでしょう。信長にしても長篠の直後に本能寺の変で死し、時代は豊臣秀吉のものへと移りました。そして、みなさんご存知の通り、結局最後に戦国を制したのは信長ではなく、秀吉でもなく、三方ケ原で信玄に完全敗北した徳川家康だったのです。
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