一万円札の肖像画の人物、福沢諭吉。一万円札と言う代わりに「諭吉」と言えば通じるくらい、その名は人々に広く親しまれています。今や日本で最も有名な歴史人物の一人と言ってもいいかも知れません。しかし、その人物像といえば「慶應大学の創始者」「『学問のすゝめ』を書いた」という程度のことが知られているくらいではないでしょうか。幕末、明治と日本の言論界・思想界に重きをなした「諭吉」の人生を、今回は追ってみましょう。
蘭学を志して
天保5(1835)年12月12日、大坂の豊前中津藩蔵屋敷(豊前中津藩=今の大分県)において福沢諭吉は生まれました。父は下級の中津藩士でしたが、当時の身分制度の中にあって大きな出世も出来ないまま、間もなく亡くなっています。このことは諭吉の内面に大きな影響を与えたらしく、後に諭吉は「門閥制度(身分制度)は親の敵(かたき)」と述べています。その後、残された家族は諭吉を連れて中津へと帰郷し、その地で暮らし始めます。
そして時は流れ、嘉永6(1853)年。日本を揺るがす大事件が起こります。そう、黒船来航です。これに衝撃を受けた青年諭吉は蘭学を学ぶために長崎を訪れ、その後大坂へと移り、当時の一流学者であった緒方洪庵の適塾に入門。オランダ語などを熱心に学びました。途中、自身の病気や家督の問題などで幾たびか中津へ戻っていますが、やがて諭吉の能力は藩に認められ、藩の命令で江戸に蘭学塾を開設します。これが現在の慶応義塾大学の前身となりました。安政5(1858)年のことです。
西洋のエキスパート
その翌年、諭吉は横浜見物に訪れます。この頃、すでに日本の鎖国政策は終わりを告げ、横浜は外国に向けて開港されていました。当時の日本において最も「世界」に近い地、横浜で諭吉は「世界」の現実を知ります。それは自分の学んできたオランダ語はとうに世界の主流ではなく、横浜に溢れていたのは英語ということでした。諭吉は英語の重要性を実感し、以後、英語修養に励むようになりました。また、外国訪問も熱望し、実際に幕府の使節に混じって訪米する機会を得ました。現地においてはその文化に大いに触れ、視野を広げたようです。
諭吉の海外行はこの一度ではありません。その後、ヨーロッパへと渡り、さらにはアメリカへも再び訪れています。幕末においてこれほど欧米を訪れた人物はほとんどなく、この三度の海外行により、諭吉は西洋のエキスパートとしての見識を獲得しました。
これからの日本とは
さて、ここまでは言わば思想家福沢諭吉の準備期間。ここから諭吉の活動はいよいよ本番を迎えることになります。それは旧来の封建的社会を脱し、新しい日本の国のあり方を示すということでした。
まず諭吉は、二度目の海外行の後に『西洋事情』という書物を著しました。これはその名の通り、西洋の科学や文化を分かりやすく紹介した本で、15万部(偽版=海賊版を含めると20万部以上とも)もの売上げを記録します。識字率が低く、印刷技術も未熟だった時代においては、空前の大ベストセラーであったと言えるでしょう。
明治元(1868)年には、慶應義塾を正式に開塾しました。そして明治5(1872)年、かの有名な『学問のすゝめ』の刊行を開始します。
『学問のすゝめ』において強調されているのは独立の精神でした。個人とは独立した存在で、そのあり方は身分制度によって左右されるべきではない。学問によるべきであるとし、人々に学問の重要性を説いたのです。この考え方の裏には、父の生涯についての思いもあったことでしょう。さらに、この独立の精神を個々人が持つことは、国家の独立にもつながることであると、新しい国家の形にまで話は踏み込んでゆきます。海外行を通じて多くの国を肌で感じてきた諭吉の面目躍如といったところです。この『学問のすゝめ』は計17篇が刊行され、累計の発行部数は340万部にもなるといいますから、これまた空前の大ベストセラーであり、その後の教育や日本の西洋に対するスタンスに大きな影響を与えています。
諭吉は他にも数々の活動をなしています。『時事新報』という新聞を創刊し、ジャーナリズムの分野にも進出。細菌学者の北里柴三郎への支援も行い、研究所を設立しました。もちろん著作活動も積極的に行い、新しい国や社会のあり方を説き続けました。
学問のすゝめ
「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らずといへり」。『学問のすゝめ』冒頭の名文句ですが、これにはもちろん続きがあります。全ての人はみな平等で、生まれながらの貴賎の差別は無い…となるのですが、その後にこういう部分があります。少し長いですが抜き出しましょう。
「されども今広く此人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、其有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや」
人はみな平等なのだが、世の中を見てみれば賢者も愚者も富者も貧者もある、というのです。もちろんこの後には、それらの違いを決定するのが学問なのである、と続きます。これはなかなか厳しい言説です。このことは、諭吉の業績を見るにあたって重要な点であるように思えます。諭吉は単に「人間は生まれながら平等だ」という理想のみを説いたのではありません。理想と同時に現実を説いたのです。付け加えるならば、この姿勢は西洋を語る時にも表れています。若い時代に西洋の洗礼を浴びた諭吉ですが、決して西洋一辺倒だったわけではありません。西洋のいい面を紹介すると同時に、悪い面の批判も行っていました。
当時の日本は非常に不安定な時期でした。未来へ羽ばたくという希望を抱きながら、西洋文明の圧倒的な力の前に、いつ転覆してもおかしくない状況であったでしょう。そんな中でただ理想を述べるだけで人々に受け入れられたでしょうか。諭吉は理想を語ると同時に、現実を語るという冷静な視点を持っていました。さらに、実際に西洋へ渡り、本を出し、学校を作り、新聞を作るという、実際の行動も起こしています。そんな諭吉だったからこそ、当時の日本人に広く支持され、偉人として名を残しているのでしょう。
1901年2月3日、福沢諭吉は亡くなりました。葬儀には一万を超える人々が集まり、諭吉を見送ったということです。
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