今回は、11月にご紹介した武田信玄のライバルとして知られる上杉謙信の人生を追いかけます。
信玄と同様、川中島の合戦ばかりが大きくクローズアップされる謙信ですが、もちろん謙信とてそれだけの人物ではありません。北陸から関東までを駆け抜けた無類のいくさ上手であり、信玄亡き後の戦国において、織田信長に対抗しようとした、またそれができた数少ない大名の一人でもあったのです。
継承のとき
上杉謙信は、享禄3(1530)年1月21日、越後(現在の新潟県)の守護代・長尾為景の次男として誕生しました。当時の長尾家を取りまく環境は複雑で、親戚や、主家筋にあたる上杉家などとさまざまなかかわりを持っていました。父が死んだ時、謙信は幼く、次男ということもあり、家督は兄の晴景が継承します。
さて、成長した謙信は自ら軍を率いて領国の平定に駆け回ります。そのいくさぶりは見事なものでした。兄が病弱であったこともあり、やがて謙信は兄の養子に入るという形で長尾家の家督を継ぐこととなります。この相続は表向き円満ですが、裏では相当ないざこざがあったとも言われます。戦国を貫く下克上の論理が、ここにも働いていたのかも知れません。この時謙信、19歳。
※守護代とは、室町幕府において各国を統括する役割にあった「守護」の下に置かれた役職です。戦国大名の多くはこの守護や守護代から出ています。
※謙信はその生涯において「長尾」姓、「上杉」姓の二つの姓、そして「景虎」など多数の名を使用しました。謙信とは出家後の法名です。ここでは分かりやすくするため、武田信玄の項と同じく、謙信の名で統一します。
いくさの日々
家督を相続した謙信がまず直面した大きな戦は、関東におけるものです。主家筋にあたる関東管領の上杉氏が関東に勢力を張る北条氏に攻められ、それを助けるための戦でした。これをきっかけに、謙信は長く北条と対峙することとなります。
この戦いで謙信は首尾よく北条を破り、朝廷より従五位下の役職を賜っています。
さて、この頃、謙信のもとに村上義清という人物をはじめとする、かつて信濃で勢力を張った豪族らがやってきます。彼らは信玄によって自らの領地を追われたため、謙信に助けを求めに来たのです。これを原因として、あの川中島の合戦が始まったのは、武田信玄の項で述べた通りです。
それからの謙信は、折りに触れ信玄と戦いつつ、いくさに駆け回る日々を過ごします。主戦場は北陸と関東。自らの足場を固めながら、関東の北条氏と戦いました。
この時期、謙信は京都へと上り、天皇と将軍に拝謁し忠誠を誓っています。さらに、関東管領上杉氏の要請に従い、その地位と上杉の姓を譲られます。戦国ファンに馴染み深い越後の上杉氏は、この時誕生したわけです。謙信は既存の権威を重んずる人物だったことがうかがわれます。思えば、謙信が関東にこだわり続けたのは上杉氏への忠誠があったということなのでしょう。関東管領の地位を受け継いでからも、謙信は関東を見捨てることは決してありませんでした。やはり謙信とは、信長や家康とは異なる、旧い大名であったのでしょう。
その後、謙信は宿敵北条と和睦し、関東へと勢力を伸ばしました。拡大しつつあった武田氏への対抗策とも言われます。さらに北条が代替わりするとその和睦も破綻。戦国の目まぐるしさが感じられます。そんな中、一つの事件が起きます。
それは、戦国の巨星であった武田信玄の死でした。これで必然的に謙信の相手は定まることとなります。
もちろんその相手とは、織田信長。
※関東管領も室町幕府の役職。時代が下るにつれて関東地方に強い権力を持つようになり、その役目は上杉家の世襲でした。
天下を取らなかった男
謙信は北条との戦いもこなしつつ、信長への対抗を強めていきました。信長と敵対する大名と結び(その中には武田氏も含まれていました)、織田氏を包囲してゆきます。また、能登に侵攻した際には、援軍としてやってきていた織田軍と交戦し、それを完膚なきまでに叩きのめしています(手取川の戦い)。
しかし、時の流れとは非情です。その戦いからしばらくして、謙信は病没しました。49歳でした。謙信が亡くなったという知らせを聞き、信長はこれで天下が取れると大喜びしたといいます。
とは言え、謙信が天下を狙っていたかどうかということになると、疑問符がつくと言わざるを得ません。川中島に出陣したのも、信玄に追われた豪族を助けるためでした。朝廷と将軍に忠誠を誓い、関東の地を治めるために駆け回りました。また、謙信が信長に対したのは、信長によって将軍職を引きずり下ろされた足利義昭の意向があったからとも言われます。謙信の行動には、常に「義」というものが付いて回っていたのです。織田軍を徹底的に破る力を持ち合わせていても、それを義のために用いる。それが、上杉謙信という大名の生き方であり、魅力であり、また限界であったのかも知れません。
さて、その後、上杉氏はどうなったのでしょう。
謙信に子はありませんでしたが、養子の上杉景勝が家を継ぎ、やがて上杉氏は豊臣秀吉の勢力下に入りました。関ヶ原の戦いでは石田光成の西軍についたものの生き延び、米沢藩の藩主となり、明治までその地位を守り通しています。
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