今回は「護法の神」という異名まで持っていた明治の裁判官、児島惟謙(こじま・いけん/これかた)をご紹介します。
三傑をはじめとする明治の人物としては知名度の高い方ではないものの、裁判官としての児島が近代史に与えた影響は小さくありません。児島の残した業績を見てみましょう。
志士から裁判官へ
児島惟謙は天保8(1837)年2月1日に宇和島藩(今の愛媛県)の藩士の家に生まれました。父母が離縁したため、幼少時は苦労の内に育ったようです。しかし剣の腕がなかなかであったらしく、長じて藩に役目を得、やがて幕末という時代の中で志士として活動するようになりました。尊王開国の思想を持ち、あの坂本竜馬などとも親交がありました。戊辰戦争にも官軍の一員として参加しました。
維新が成り、役人の道を歩み始めた惟謙は明治の始めに司法省へ出仕します。司法省は文字通り法律を司る役所で、現在に置き換えれば法務省ということになります。
司法省における惟謙は各地の裁判所に勤め、順調に出世してゆきました。法曹教育にも尽力し、関西法律学校(現在の関西大学)の設立に深く関わったことはこの時期の大きな功績として記録されています。
時は過ぎ、1891(明治24)年、とうとう惟謙は大審院長の座にまで昇りつめます。分かりやすく言えば惟謙は、裁判官の中で最も偉い立場に立ったということになるでしょうか。大審院というのは当時最も上位の裁判所であり、現在の最高裁と同じように終審を担当するほか、旧刑法で定められていた「皇族に対する罪」などを裁いていました。
そして惟謙が大審院長に就任してまもなく、日本を揺るがす大事件が発生します。いわゆる大津事件でした。
パニック
大津事件が発生したのは1891年の5月。来日中であったロシアの皇太子・ニコライが滋賀県の大津で、警備中の巡査に斬り付けられて負傷したのです。
当時の日本人はこの事件に大いに驚きました。いえ、驚いたという表現では生ぬるいでしょう。パニック状態に陥ったのです。ロシアといえば大国。その大国の皇子が日本で負傷、しかも襲われて傷ついたとあらば、ロシアが怒って攻めてくるかもしれない。そんな恐怖感が当時の国民の間にはあったのでしょう。ニコライに対して国内から大量の見舞い・謝罪の電報や手紙が届けられました。何と、死んで詫びるという女性まで現れ、実際に自決しています。
そして、日本政府にとって何よりの問題は事件を起こした張本人、巡査・津田三蔵の処遇でした。
「容疑者を死刑にせよ」
当時の日本とロシアは、なかなか微妙な関係でした。ロシアの取っていた南下政策をめぐり、二国の緊張は深まりつつありました。政府としては、問題の処理を間違えば大変な事態に発展するかもしれないという危機感はあったでしょう。そこで、何としても問題の処理を間違えてはならない、はっきり言えば、容疑者である津田を死刑にして手打ちとしたいという意向を持つに至りました。
しかし、津田を死刑にするということは難しい状況でした。ニコライは斬り付けられたとはいえ、命に別状はありません。深手でもありませんでした。法に照らし合わせれば、津田の行いは謀殺(殺人)未遂として扱われるべきで、死刑に相当する罪ではなかったのです。
そこで政府の要人たちは一計を案じます。旧刑法における「皇族に対する罪」の規定をこの事件に適用しようとしたのです。
しかし、ここにも問題がありました。この「皇族に対する罪」とは日本の皇族を対象にしたもので、外国の王族や皇族はあてはまらないのです。しかし政府は横車を押し、本来ならば下級審で審判されるはずだったこの事件を「皇族に対する罪」を裁くものと同等に扱い、大審院へと移送しました。
この困難な事件が起きたときに大審院長であったのが、ほかでもない児島惟謙だったわけです。
三権分立を守れ
ここで三権分立という考え方について触れておきましょう。三権分立は近代国家における重要なシステムの一つで、国家に属する三つの大きな権力の独立性を確保し、互いに影響させあうことで権力の暴走を防ぐというものです。三つの権力とはすなわち司法(裁判所)、立法(国会)、行政(内閣)です。大津事件においては、事件を大審院のものとした時点で行政による司法への干渉でした。これは、近代国家としてやってはいけないことだったのです。
しかし、政府は司法に対してさらに強烈な圧力をかけました。つまり、津田に「皇族に対する罪」を適用して死刑にせよという圧力です。この圧力に、惟謙は抵抗しました。近代国家の要件とされている法治主義、それを曲げるようなことがあれば逆に諸外国から軽んじられる。法に基づいて容疑者を裁いたなら、ロシアも必ず理解するはずであると主張しました。
惟謙は事件を担当する裁判官のもとに赴き、政府の圧力に屈しないよう説得して回ったといいます。そして、遂に結論は出ました。大審院は津田に対して通常の謀殺未遂罪を適用し、無期懲役とする判決をくだしたのです。
もちろん、この判決をロシアが非難することはありませんでした。
大津事件という試練
大津事件において、惟謙は司法権の独立を保ったとして讃えられています。とは言え、惟謙の取った行動に問題がなかったわけではありません。例えば、惟謙は政府の圧力に直面する裁判官たちを説得して回りました。大審院長によるこの行為は、裁判官の独自の判断を縛るものとも言え、本来許されるものではないのです。また、事件に「皇族に対する罪」を適用しない以上、大審院で裁判を行うべきでもありませんでした。
しかし、そもそも国家権力のあり方そのものが茫洋としていた時代だったのです。
そんな時代にあって、惟謙が司法権の独立を確固として認識し、政府の干渉を防ぎ切ったことは紛れもない事実です。事件は法治主義というものが人々に大いに認識され、議論される契機ともなりました。大津事件とそれをめぐる惟謙の働きによって、日本という近代国家が少年期から青年期へと移行した。そう言っては言い過ぎでしょうか。
惟謙は大津事件の翌年、大審院長を辞職しました。大審院の判事が花札賭博を行っていたという疑惑が持ち上がり、その責任を取ったのです。惟謙自身は賭博に関わっていなかったとされましたが、おそらくこの疑惑の周囲には政府の報復という意図が渦巻いていたことでしょう。
その後の惟謙は代議士などをつとめ、1907年7月1日に亡くなりました。
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