日本が開国する直接のきっかけとなった「黒船来航」。その黒船を率いていたのがペリーです。日本人の誰もが知ると言っても過言ではない名前ですが、案外その詳しい人物像は知られていないのではないでしょうか。ペリーとはどんな立場にあった人物なのか?なぜ黒船は日本にやってきたのか?そして、なぜイギリスでもフランスでもなくアメリカだったのか。今回はペリーという人物と、黒船来航が日本に与えたインパクトについてご紹介したいと思います。
海軍軍人・ペリー
ペリーは1794年4月10日に、アメリカ・ロードアイランド州で誕生しました。父は海軍関係の人間で、兄も海軍軍人。ペリー自身もやがて海軍へと入ります。
海軍に入ったペリーは軍人として順調に出世してゆきます。ことに当時の最新技術であった蒸気機関を用いた軍艦の導入において中心的役割を果たし、アメリカ海軍初の蒸気軍艦建造にも海軍工廠の司令官として深く関わりました。
1845年、アメリカとメキシコの戦争(米墨戦争)が勃発した際には艦隊を指揮し、蒸気船を上手く扱って戦争を勝利へと導きました。こうして彼は「蒸気海軍の父」という異名まで与えられるほどの軍人へと成長します。
そして1852年、ペリーにある命令が下りました。それは東インド艦隊司令長官への就任、ならびに日本へと赴くべしという命令でした。「黒船」のボスとしてのペリーは、こうして誕生したのです。
アメリカが日本をめざしたわけ
当時の欧米世界は、イギリス、フランスなどの列強と言われる国々が強い力を持っていました。彼らは主として植民地獲得という手段によって市場を拡大し、自国の経済を発展させ続けていました。そして、インドや東南アジアへの進出を終えた列強が次の市場として目を付けていたのが中国大陸、当時の清王朝でした。
そんな欧米情勢にあって、アメリカは地理的な条件などから遅れをとっていました。黙っていては清という超巨大市場を英仏などに抑えつくされてしまいます。
アメリカは米墨戦争によってアメリカ西海岸(カリフォルニア地方)を領土として獲得したところであり、太平洋を渡って清へ向かう条件は整っていました。しかし、寄港地がなかったのです。そこで寄港地にふさわしい適当な文明国として目を付けたのが日本でした。西海岸から太平洋を渡り、日本で水や石炭などを補給して清へ向かう。そんな太平洋航路の確立のため、アメリカは日本の開国を欲したのです。
もう一つ、捕鯨という理由もありました。当時の欧米世界は産業革命を経て、工場が猛烈に稼働するような時代が来ていました。当然ランプなども多く使用するわけですが、その燃料として使用されていたのが鯨から取れる良質の油、鯨油でした。列強は鯨油をのためにこぞって捕鯨を行っており、アメリカも太平洋に多く捕鯨船を出していました。これらへの燃料補給の役割、さらには遭難者救出の拠点としての役割も、日本に期待していたのです。
ペリーの黒船に課せられた使命というのは、こういうなかなかに重い使命でした。ちなみに、日本との通商については、できればやりたかったでしょうが必ずというほどではない、そんな目標だったようです。
ペリーの強硬策
1852年、ペリーはアメリカ大統領フィルモアの親書(手紙)を携え、艦隊を率いてアメリカを出発します。艦隊は大西洋を渡り、アフリカ、シンガポール、香港などを経て、やがて江戸城の直近、浦賀に出現します。
ペリーは日本との交渉に向けた行動を早速開始しました。まずペリーに対応したのは地元の与力二人でしたが、ペリーは彼らを突っぱねました。下級の役人であるという理由からです。さらに、上級の役人が対応しないのであれば浦賀を離れて江戸城へ赴き、将軍に直接面会するとまで言ったのです。
この強硬姿勢は、この時のペリーを一本貫く軸でした。艦隊は停泊中、常に大砲を陸へ向けていましたし、時には祝砲と称して空砲すら連発しました。明らかな威嚇です。ペリーは日本の鎖国を守る頑な姿勢を情報として知っており、それを突き崩すには強硬姿勢しかないとふんでいたようです。幕府にとっては迷惑千万、傲慢としか見えない行為でしょうが、外交家としてのペリーは非常な辣腕であったと言えるでしょう。
さて、当時の将軍は十二代家慶でしたが病の床にあり、当時の幕府主脳のリーダーは阿部正弘という人物でした。弱り果てた阿部は、とにかく回答を引き伸ばそうという作戦に出ました。親書を受け取るだけ受け取り、ペリーにはさっさと帰ってもらってその間に対策を練ろう、あわよくばうやむやに済ませよう、というわけです。
かくして幕府は、親書を正式に受け取りました。阿部は将軍の病気を理由に返事を引き伸ばし、一年後に再び来航して貰いたいと要求します。ペリーはこれをあっさり受け入れ、一年後の来航を約して浦賀を去りました。幕府は安堵します。
日本開国、任務完了のとき
しかし、それも束の間の安堵でした。ペリーが去ってすぐに将軍は死去し、その混乱も覚めやらぬ半年後、艦隊は再び日本を訪れたのです。期日が早まったのは将軍死去の混乱を衝くと同時に、アメリカは甘くないという姿勢を見せる戦術であったでしょう。ここでもペリーのしたたかなやり方が見て取れます。また、アメリカが幕府との接触に成功した以上、他の欧米列国も日本との接触を試みるに違いなく、その徴候も見えていました。先手を打ったというわけです。事実、ペリーの来航後すぐにロシアが使節を日本へと派遣し、幕府は交渉の場を設けています。この時交渉の任にあたったのが奉行の川路聖謨という人物でした。その有能ぶりをロシアは高く評価していますが、それはまた稿を改めてご紹介しましょう。
とにかく、二度目の来航を幕府は逃げ切ることができませんでした。1854年、日米和親条約が結ばれました。貿易こそ許されなかったものの、開幕以来250年を経て、とうとう日本は鎖国を解いたのです。
条約締結後に帰国したペリーは、本国で遠征の記録をまとめました。その中には日本のことが詳細に記され、未知だった日本事情を広くアメリカ社会に知らせました。蒸気海軍の父として高かったその名声は、極東アジアの専門家としても高まったのです。
しかし、そこからのペリーは長くは生きませんでした。和親条約締結からわずか四年後の1858年3月4日、ペリーは病で亡くなりました。
転換点の中心にいた男
その後の日本、そして欧米について簡単に述べておきましょう。
和親条約締結後、同様の条約が欧米列国との間に次々と結ばれ、やがて日米修好通商条約によって貿易も解禁されました。それに伴い日本は、開国派、攘夷派、勤皇派、佐幕派などが入り乱れて争う激動の幕末へと突入してゆきます。そして、新たな市場としての価値、アジア貿易や捕鯨の寄港地としての価値を認め、列強が日本の混乱の中に割り込んでくることとなります。
ところがこの幕末期に日本へ介入していた主要な欧米勢力は英仏でした。イギリスは主に官軍を、フランスは主に幕府を裏から援助し、内政安定後の勢力確保を狙いました。そこにアメリカの影は見えません。
条約後、アメリカが日本から手を引いたように見えるのは、南北戦争勃発が原因でした。日本開国後、この巨大な内戦のせいでアメリカは他国と関わるどころではなかったのです。日本開国への引き金を引いたアメリカが、日本の近代の幕が開く瞬間に立ち会えなかったというのは何とも面白い巡り合わせです。
それにしても、幕府が崩壊し、新政府が立ち上り、日本の社会が激変したのは、まさしく日米和親条約が契機でした。青い目の外国人と黒い異形の軍艦。それは、見た目のインパクトと同時に、歴史の転換点という絶大なインパクトを持っています。
この二つのインパクトによって、ペリーの名は広く日本人に記憶されているに違いありません。そして、それはこれからも記憶され続けることでしょう。
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