今回ご紹介する人物は、平安時代の高僧・空海です。弘法大師の名でも知られるこの人物、ただの僧ではありません。仏教のみならず、文化、教育、果ては土木の分野にまで多大な業績を残しているのです。また、空海にまつわる伝説や民話が全国各地に伝わるなど、その存在は常に民衆の信仰の対象でもありました。
没後1000年以上に渡って語られ、信仰され続けるその才能。空海とはいかなる人物だったのでしょうか。
その生涯
空海は宝亀5(774)年6月15日、讃岐国(現在の香川県)に生まれました。幼い頃から秀才として知られ、やがて京都の大学寮へと入ることになります。大学寮とは当時の官吏養成所であり、最高の学問を学ぶ場。空海もこの大学寮でゆくゆくはエリート官吏の道を進むはずでした。
しかし、空海は官吏にはなりませんでした。大学寮において仏教と出会ったからです。仏教の素晴らしさを感じた空海は、その道に進むことを決断します。それが大体二十歳頃のことでした。
それからの空海は各地を旅したり、さまざまな書物を紐解いたりしながら仏教研究に明け暮れる日々を送りました。この期間に仏教の中でも特に密教へと着目し、出家もしています。そして三十歳を過ぎた頃、空海に大きな転機が訪れました。遣唐使の一員として選出されたのです。それはもちろん、日本より遥かに先をゆく先進国・唐において最高の仏教を学べるということを意味していました。
こうして空海は唐へと渡りました。同時に唐へ渡った人物に最澄などがいます。入唐した空海は長安で語学などを学び、やがて当時の密教の最高指導者であった青竜寺の恵果という人物の弟子となります。
恵果との修行は半年で終了しました。わずかな期間でしたが、それは恵果が半年で亡くなってしまったからです。しかし、空海にとってこの半年間は何者にも替え難い半年であったらしく、空海は密教のあらゆる秘法を伝授されました。師の没後、一年も経たない内に空海は日本への帰国の途についています。合計の滞在記間は約二年でした。
帰国した空海はしばし九州太宰府に留まり、数年後に入京します。そして、京においていよいよ真言宗を開きました。
真言宗の開祖となった空海は密教研究や祈祷、灌頂(弟子などに対して修行の成果を認める儀式)などを行い、その名は大きく高まりました。そして四十歳を過ぎた頃、天皇より高野山を賜り、真言宗の総本山である金剛峯寺を開いたのです。
その後も空海は僧として質の高い活動を続けてゆきます。仏教研究はもちろんのこと、弟子の育成にも力を注ぎました。貴族など中央への布教はもちろん、地方へ赴いての布教活動も行いました。社会事業や教育活動までも行ったのです。そうして承和2(835)年3月21日、空海は61年に渡る生涯の幕を下ろしたのです。
さまざまな業績
さて、ここまで空海の生涯を駆け足でご紹介しました。しかし、業績についてはほとんど触れていません。その業績こそが今回のメインテーマです。以下では、主な業績を順番にご紹介します。
宗教
空海と言えば同時代の最澄とともに、平安仏教の先駆者として有名です。当然のことながら、宗教分野での大きな業績を残しています。真言宗を開き、多数の弟子を育成したのは最も顕著な業績と言えるでしょう。中でも十大弟子という優れた弟子たちは空海の教えをよく受け継ぎ、空海没後の真言宗をさらに大きく発展させました。
宗教書も多く残しています。例えば二十代の頃に著したのが『三教指帰』という書物。仏教、儒教、道教の三教を比較し、仏教がいかに優れているかを示すというテーマを持っており、宗教の研究書であると同時に文学作品としても高く評価されています。
文学
空海は宗教以外の著作も多く行っています。先に述べた『三教指帰』が文学的業績としても評価されているほか、さまざまな詩歌や文章を残しました。また、日本初の辞書(漢字字典)である『篆隷万象名義』という書物も著しています。
さらに有名なのが書家としての業績です。「弘法にも筆のあやまり」ということわざは、誰もが耳にしたことはあるのではないでしょうか。同時期の嵯峨天皇、橘逸勢とともに当代最高の名人として「三筆」の一人に数えられており、現存する空海の筆跡は国宝にも指定されています。
教育
既に触れましたが、当時は大学寮という学校が存在していました。しかし大学寮はあくまで官吏養成を目的としていたため、純粋な教育機関とは言えず、また入学は貴族の子弟に限られました。そこで空海は、身分を問わず教育が受けられる学校を創立したのです。その名を綜芸種智院といいます。綜芸種智院は財政などの事情から長くは続きませんでしたが、平安の昔に庶民教育の実現を模索した空海の発想力には驚かされます。
美術
書の業績は美術分野とも言えますが、それ以外の美術の発展にも空海が大きく関わっています。空海が学んだ仏教はその中でも密教と呼ばれるものでしたが、その密教をテーマとする美術を密教美術といいます。空海は密教美術のさまざまな名品を持ち帰り、そのことは以後の日本密教美術の発展を促す結果となりました。さらに空海自身もさまざまな美術品の制作などを指揮したと言われます。
土木
空海は土木事業の指揮も執りました。故郷である讃岐の満濃池の修築です。非常に困難な工事だったようですが、空海は当時としては最新の工法を駆使し、見事に修築を完了しました。
平安の残り火
ここで紹介した業績はもちろんごく一部ですが、それにしても驚異的な多彩さです。
空海が唐に渡ったことは既に紹介しました。唐とは宗教だけではなく、社会のあらゆる面において当時の先進国でした。その唐において空海が得た知識は、仏教だけではありませんでした。半年は恵果についてみっちりと密教を学びましたが、他の期間は仏教以外のさまざまな知識も学び取っていました。それが日本での業績を生み出したのです。
空海が唐で過ごした二年。仏教を学ぶだけでも不足のように思える短期間ですが、このわずかな期間をいかに濃密に過ごしたか。そしてその濃密さに溺れてしまわなかった空海の才能がいかに凄いものであったか。やはり驚異的と言うほかありません。
冒頭で述べた空海やそれにまつわる伝説は、日本各地に数千が残されていると言われます。その伝播についてはさまざまに研究されているものの、空海のスーパーマン的な多才と、日本各地で展開された布教やその他の活動が伝説の素地となったことは間違いありません。
千年の時空を超え、今も生きる伝説。それは書物に記された平安時代ではなく、現実にあった平安時代の残り火です。空海とは、その才によって平安と現代をつないでくれているのかも知れません。
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