現在、非常に将来の期待されている科学分野の一つに遺伝学があります。遺伝子の研究は大変な速度で進行し続けており、その成果は医療や食品など、さまざまな分野に応用されようとしています。
この遺伝学発展の礎を築いた人物はメンデルといいます。いわゆる「メンデルの法則」の発見者です。ところがこのメンデルの法則は、彼の生前に認められることはなかったということをご存じでしょうか。
遺伝の法則の発見者、メンデル。今回は彼の人生をご紹介します。
修道士メンデル
メンデルは1822年7月22日、当時のオーストリア帝国の小さな農村(現在のチェコに含まれる地方)において誕生しました。成長すると学校で哲学を学び、20歳を過ぎた頃に修道院入りします。
メンデルの入った修道院は、神学のほかにもさまざまな分野の学問研究が盛んでした。少年時代から科学に関心のあったメンデルは、修道士として過ごす日々のかたわら、独学で自然科学の勉強を行います。
数年が経ち、メンデルは司祭の地位へと上り、近くの学校で学問を教えることも始めました。やがてメンデルは修道院長の推薦のもと、ウィーン大学において本格的に自然科学を学ぶ機会を得ます。そして、大学から戻ったメンデルは、いよいよ遺伝の研究に着手することとなるのです。
エンドウマメの実験
当時、遺伝の存在は知られていたものの、その詳しい法則性までは知られていませんでした。メンデルは実験により、親から子へと特徴が受け継がれていく様子を系統的に記録・整理し、遺伝の法則性を見つけようと考えました。
メンデルが行った遺伝の実験とはエンドウマメを使うものでした。まずメンデルは、マメの色や形、花や株の様子など、はっきりとした特徴を代々受け継いでいるエンドウマメを選び出しました。このように、はっきりとした特徴を代々受け継いでいる個体を「純系」と呼びます。遺伝の法則を確認するには純系の使用は不可欠。親の特徴が不安定であれば子の特徴も不安定になるからです。純系に着眼したからこそ、メンデルは親から子へ伝わる特徴をしっかり見定めることが可能になったと言えるでしょう。
そして、ここからが実験の本番。選び出した純系をかけ合わせる手順です。純系同士をかけあわせて、子に出てくる特徴はどうなるのか、子をかけ合わせるとどうなるのか。メンデルはこれらを丹念に実行、記録し、分析しました。その結果、特徴の受け継がれ方にしっかりした法則性のあることを発見したのです。これが有名なメンデルの法則です。
メンデルはこれらの実験を、修道院の庭でなんと約8年もかけて行いました。非常な忍耐力と熱意が感じられます。
そうして、いよいよこの研究成果を発表する時がやってきます。
冷たい反応
長い年月をかけてまとめられた研究成果。ところが、それに対する反応は冷たいものでした。法則の数学的な面が、当時の生物学のあり方にあまりにも馴染まず、まるで理解されなかったためと言われます。メンデルはどれほどがっかりしたことでしょうか。
メンデルはその後も数年に渡り研究を続けましたが、やがて研究の世界から離れてゆきます。気落ちして、とうとうやる気をなくしてしまったのでしょうか?
もちろん、そうではありませんでした。この頃、修道院長が亡くなり、メンデルは新たな修道院長に選任されたのです。修道院長となったからには、非常に責任も重くなります。折りしも、当時のオーストリア政府による修道院への課税強化も行われつつあり、メンデルは修道院長としてこの問題に立ち向かわねばならないということもありました。メンデルは急激に忙しくなり、研究に手をかけている暇がなくなってしまったのです。
認められた男
修道院長となって約15年後、メンデルは61歳でその生涯を終えました。何年もかけてエンドウマメを栽培し、一つの大きな真実に到達したメンデル。その忍耐と努力は、遂に生前に認められることはありませんでした。しかし、この話には続きがあります。メンデルの研究成果は忘れ去られなかったのです。
1900年のことでした。オランダのド・フリースをはじめとする3人の学者が、それぞれ別に、なおかつほぼ同時にメンデルと同様の発見を成し遂げます。そして、これをきっかけに、ようやくメンデルの研究成果が脚光を浴びることとなったのです。メンデルの死から16年、メンデルによる初めての研究発表から実に35年の歳月が流れていました。
以後、メンデルの法則はさまざまに応用されながら、遺伝学はもちろんのこと、自然科学全般、ひいては社会のさまざまな分野に対しても大きな影響を与えてきました。
現在では、科学史上に燦然と輝く大発見を成し遂げた人物として、メンデルの名は全世界に知れ渡っています。こういう報われ方もあるのだと、歴史が示してくれているようにも思われます。
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