新渡戸稲造といえば、一代前の五千円札の肖像画として日本人に親しまれていた人物です。彼は、西洋と日本をつなぐ役割を果たしたい、「太平洋の橋(かけはし)」となりたいと心から願い、そのために世界を駆け回りました。世界に日本を紹介し、日本に世界を紹介するために力を尽くしました。
今回は、そんな新渡戸稲造の生涯をご紹介します。
太平洋の橋になりたい
文久2(1862)年8月3日、新渡戸稲造は南部藩(現在の岩手県)において、藩士の子として誕生しました。幼少から学問に親しみ、少年期に叔父の養子となって上京して勉学に励みます。やがて16歳になった稲造は、北海道へ行き、札幌農学校へと入学することになりました。
札幌農学校といえばあのクラーク博士ですが、実は稲造はクラークとは直に会っていません。稲造が入学した時には、すでにクラークは任期を終え、学校を去っていたのです。クラークの直接の指導を受けたのは札幌農学校の一期生であり、稲造は二期生でした。同期に内村鑑三がいます。
クラークはすでに学校を去っていましたが、キリスト教に基づく人格・道徳教育というその教育方針は一期生に充分浸透していました。二期生だった稲造も一期生を通じてクラークの影響を大いに受けたのです。稲造はこの農学校時代に、キリスト教の洗礼を受け、聖書とキリスト教に深く親しむようになりました。それは、稲造にとって初めてダイレクトに触れた「西洋」であったに違いありません。
やがて札幌農学校を卒業した稲造は東京大学へと入学します。入学面接の時に稲造は日本と海外をつなぐ「太平洋の橋」になりたいという希望を口にしたといいます。
『武士道』出版
23歳の時、稲造はアメリカへと私費で留学します。自らの希望を叶えるための大きな一歩でした。
稲造は現地の大学で存分に学びました。さらに、キリスト教徒としても新たな道を発見し、クエーカーとなりました(クエーカー=キリスト教の一派であるクエーカー派の信者)。このクエーカーの輪の中から、後に伴侶となる女性にも出会っています。
稲造のアメリカでの時間は、学問の上でも、人間関係の上でも、大変有意義なものであったようです。
続いて稲造はドイツへと留学してさらに勉学に励み、帰国後、母校の札幌農学校の教授となりました。ところが在職中に稲造は、多忙が原因で体調を崩してしまい、療養生活へと入るのです。
しかし、この療養生活は悪いことばかりではありませんでした。この期間中に稲造は、あの『武士道』を執筆したのです。
『武士道』は英文の書物です。日本古来の武士道が日本人の倫理や道徳、文化などを支えてきたとし、これらを分かりやすくまとめ、外国人に日本を理解してもらうという主旨でした。
この『武士道』は反響を呼び、英語版のみならず各国語に訳され、大変なベストセラーとなりました。外国人に日本を紹介するという希望の一つが、ここで見事に達成されたということになるでしょう。
※『武士道』で述べられた武士道とは、実際の武士の時代にあった規律や思想とずれているところがあり、あくまで新渡戸稲造が自身の視点で武士道や日本の伝統を解釈・再構成したものであるという評価のあることも書き添えておきます。
国際人として
『武士道』によって稲造の名は一気に高まりました。その後は国際感覚豊かな教育者、知識人として、多くの高校、大学で校長や教授をつとめました。また、これらの業績や国際的な知名度を買われ、58歳の時には設立されたばかりの国際連盟の事務次長にまでなったのです。もちろん、国際連盟においても稲造は存分にその手腕を発揮しました。退任後は代議士などをつとめ、日本の国際的な地位向上や問題解決に力を尽くしました。
ここまで「太平洋の橋」となりたいという希望を胸に、国際人として活躍してきた稲造ですが、晩年に入って眼前に暗雲が立ちこめてきます。それは戦争の影でした。
1931年の満州事変勃発を境に日本は国際社会からの孤立を深め、ことに米国との対立は深刻の度を増してゆくことになります。これに危機感を抱いた稲造はある時軍閥を批判する発言を行いますが、これが軍などを激怒させるという事態を招きました。また、悪化する日米関係を何とかしたいという思いを持って米国を訪れ、各所での講演や要人との会談も行いましたが、結果は不首尾でした。それどころか、米国の友人たちにも日本を弁護していると受け取られ、その信頼を失うありさまだったのです。情勢は稲造一人の力ではどうしようもないところまで来ていました。やがて日本は、稲造が事務次長をつとめた国際連盟からも脱退してしまいます。
そんな中、稲造はある国際会議に出席した後に倒れ、現地のカナダにおいてそのまま帰らぬ人となります。1933年10月15日、稲造71歳、日本が国際連盟を脱退してからわずか半年後のことでした。
橋は架かったか
「太平洋の橋」をめざし、国際人として歩み続けた新渡戸稲造。五千円札が発行された直後の頃はあまり知られていなかった人物ですが、今では『武士道』を著したことなど、その業績がさまざまに知られるようにもなっています。それは、お札として親しまれてきたと同時に、「国際化」の時代において、新渡戸稲造の業績が大きな輝きを伴って迫ってくるからということもあるはずです。
稲造の死後、日本は戦争への道を突っ走り、やがて敗戦しました。それから苦難の戦後を乗り越え、今や日本は大きな経済力を持った国へと発展しています。通信や交通も発達し、海外の文化は日本へ入り、日本の文化は海外へ発信されるようになりました。多くの外国人が日本を訪れ、海外へ旅立つ日本人も大変に増加しました。海外は「近く」なったように思えます。稲造がめざした「太平洋の橋」は、果たして架かったのか否か。稲造に聞いてみたい気もします。
|