ペリー来航にはじまる欧米の圧力が容赦無く日本を襲い、その対応をめぐって日本中が右往左往する。そんな国難の時に幕政の指揮をとった人物が井伊直弼です。強権をもって反対者を処罰し、暗殺により生涯を終えたという負の側面が注目されがちな人物ですが、はたしてその実像はどういうものだったのでしょうか。
隠居ぐらし
文化12(1815)年10月29日、井伊直弼は第十一代彦根藩主・井伊直中の十四男として誕生しました。直弼誕生時、父はすでに藩主の座になく、兄が藩主として藩政を指揮していました。何しろ十四男、しかもすでに兄が藩主となっていたということもあり、藩主になるようなことは考えられません。直弼本人もそのことはよく承知しており、彦根城近くの屋敷で武道や学問などをして大人しく過ごしていました。ただ、それらの実力は大変なもので、剣術は一流、茶道も一流、その他、槍、弓、馬術、和歌ととにかくあらゆる方面に才能を発揮したようです。やはりただ者ではなかったのでしょう。
ほとんど隠居者のような暮らしを送っていた直弼でしたが、人の運命とは分からないものです。直弼が32歳の時、次期藩主が病死し、代わりに直弼が藩主(先述の通り、直弼の兄にあたります)の養子となり、次期藩主の座につくことになったのです。
その約3年後、藩主は病死し、直弼は正式に第十三代彦根藩主となります。政治家としての井伊直弼のスタートはこれだけ遅いものでした。
直弼と斉昭
直弼が藩主になった当時は、日本が幕末の激動期に突入する直前でした。直弼は数年ほど藩政に専念したのち、有力藩主として幕政へと深く関わってゆくことになります。
直弼が幕政の表舞台でクローズアップされた最初の例は、あのペリーが二度目に来航した時です。当時、溜間詰(たまりのまづめ)大名という有力藩主の集まりがあり、幕政にも深く関与することになっていましたが、直弼はその筆頭という立場にありました。ペリー来航に際し直弼は、溜間詰大名筆頭として鎖国の解除を主張するのです。
しかしそんな開国の主張の前に立ちはだかる一人の大物がいました。前の水戸藩藩主・徳川斉昭です。当時の老中・阿部正弘によって幕政への参与が許されていた斉昭は、鎖国の維持と外国勢力の打ち払いを主張し、直弼と激しく対立します。結局このペリー来航への対応は日米和親条約の締結・すなわち開国という形で決着するのですが、直弼と斉昭は直接に間接に、この後も対立してゆくこととなるのです。
果てなき政争
直弼と斉昭が激しく対立した問題に、将軍継嗣問題があります。
十三代将軍徳川家定には徳川慶福と一橋慶喜という二人の後継候補があり、慶福を直弼が、慶喜を斉昭が推していました。慶喜は斉昭の息子であり、彼が将軍になることは直弼としては認められません。この問題は幕府を二分する大政争に発展します。
さらに、将軍継嗣問題で幕府が揺れているさなか、幕府はもう一つの問題によっても揺れていました。日米和親条約に続く日米修好通称条約の調印問題です。幕府の基本姿勢は、勅許を得て反対意見を封じ、条約の調印にこぎつけるというものでしたが、難航していました。
将軍継嗣問題と条約調印問題。二つの問題は幕府内の勢力争いともリンクし、朝廷すら巻き込む形で果てしなくこじれてゆきます。
そんな中、直弼は大老職へと昇ります。
強引な政治
大老というのは老中の上に位置する役職で、幕府の非常時に置かれるものです。直弼はその大老職へ、半ば電撃的に就任しました。泥沼の勢力争い、条約締結の難航という情勢下にあって、開国派の重要人物であった直弼がいよいよ背水の陣を敷いたということになります。
以後、直弼はかなり強引な形で幕政を押し進めてゆきます。勅許がどうしても得られない状態で止まっていた日米修好通商条約は、国家存亡の時にあってやむなしという直弼の判断により、勅許のないまま調印が行われました。そして、調印の直後には、次期将軍を徳川慶福にするという決定を出します。
これらの強引な手法に対しては、当然のことながら大きな反発がありました。京都の朝廷も、水戸藩に「幕政を改革せよ」という密勅(戊午の密勅)を出したほどです。幕府を無視して水戸藩に勅書を出したわけですから、朝廷の怒りのほどが分かります。
ところが直弼はその反発に対し、反対者を徹底的に処罰するというさらに強引な手法で応えます。幕臣・大名から市井の学者・志士に至るまで、開国政策に反対した数多くの人々が処罰されました。あの徳川斉昭も国許永蟄居という処分を受け、その力を奪われたのです。これが世に言う、「安政の大獄」でした。
条約を軸に展開されていた政争は、直弼の完全勝利に終わるかに見えました。しかし、時代はそれを許しはしませんでした。
安政七(1860)年3月3日、江戸城桜田門外でのことでした。水戸藩出身の浪士たちに、直弼は襲撃されたのです。浪士たちの動機はもちろん、直弼の政治に対する反発です。あまりに強引な手法、そして水戸藩の藩主であった斉昭への仕打ちに、水戸藩の人々は恨みの度を増していました。それが遂に爆発したのです。これが「桜田門外の変」であり、直弼はこの日、45年の生涯を閉じました。
幕臣・井伊直弼
あまりにも強引な政治手法を取ったことで、暗殺という最期を迎えた直弼。しかし、直弼が、ただ独裁的なだけの愚かな政治家であったかというと、そうではなかったでしょう。欧米による開国要求という前代未聞の事態に対し、直弼はいち早く開国を主張しました。ペリー来航時、鎖国という仕組みが既に時代に合わないものだということは明らかでしたが、それは現代に生きる人々の目だからこそ分かることです。当時に生きる人にとっては鎖国を維持するか、止めるかというのは全く結論のつかない問題だったでしょう。むしろ、鎖国という重大な国法を捨てるということに対しては、抵抗の方がはるかに大きいことでした。そんな中で直弼は鎖国の解除を主張したわけです。慧眼であったというほかありません。
後の日本に必要となるはずであった数多くの人材の命を奪った安政の大獄。それは政治家井伊直弼の一つの汚点です。日米修好通商条約にしても、明治まで続く条約改正問題の原因となりました。しかしそれらは、幕府と日本を維持するための、直弼なりの答えであったということも確かなのでしょう。危険な手法をとってでも開国せねば、幕府も、日本ももたない。先を見通す力に長けていた直弼は、難局を目の前にそう考えたことでしょう。弱っていた幕府にあって、直弼のやったことは、幕臣としての唯一の選択であったのかも知れません。
しかし直弼の政治は、歴史が示す通り、日本の未来をつなぐことには成功しましたが、幕府をもたせることはできませんでした。直弼亡きあと、弱体化していた幕府の権力はさらに弱まり、崩壊への坂を転げ落ちてゆくこととなります。
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