16世紀ヨーロッパを吹き荒れた宗教改革の波。その宗教改革において重要な役割を果したのがルターです。ルターの前にも、宗教の改革に向けた動きはありました。ルター以後にも、数々の指導者がありました。宗教改革とは、ルター一人が行ったものではありませんが、その中でもルターが改革の大きな端緒となったのは間違いのないところです。
今回は、そんなルターの人生をご紹介します。
悩めるルター
1483年11月10日、ドイツ・ザクセンにある小さな村でルターは誕生しました。青年期には法律家を目指して大学で学んでいましたが、やがてその道を捨ててキリスト教の道を志します。修道士となったルターは24歳で司祭に任じられ、大学での神学講義を行いながら神学研究に励みます。
この頃のルターは、神の前にある自分に対して常に不安を抱いていました。それは救済に対する不安であったり、自分の小ささに対する不安であったり、自分が正しくあることができるだろうかという不安だったといいます。
これらの内面的な葛藤に対して、ルターは聖書の「ローマ人への手紙」という部分からある答えにたどり着きました。それは、「神の義」についての根本的な考え方だといいます。簡単に表現すると「人間はその行いによって正しくある(義である、『神の義』を得る)のではなく、信仰によって神が人間を正しいと認めてくださるのだ」ということでした。信仰することが義につながる、この考えを得たことでルターは宗教的に安定しました。そして、ここからルターの活動はいよいよ熱を帯びてゆくこととなります。
贖宥状から宗教改革へ
キリスト教においては、犯した罪を現世や来世で償わなければならないとしていますが、その償いを軽減するものを「贖宥状」といいます。当時のキリスト教世界においては、その贖宥状の販売が広く行われており、ことにルターのドイツでは氾濫といっていいほど大々的に行われていました。ルターはこれについて疑問を抱きます。贖宥とは書面を購入するようなことで簡単に得られるものではなく、強い信仰や反省などを経て、苦難の後に実現されると考えたのです。ルターはそんな自らの考えを紙に書いて教会の扉に掲示しました。後にヨーロッパを巻き込む「宗教改革」の端緒の一つとなったこの掲示を「九十五か条の論題」といいます。
「論題」は世間を大いに騒がせました。その是非は別にしても、贖宥状販売は教会が正式に行っていることです。それを批判したのですから、ルターの論題はローマ教会に対する反逆ですらあると言えました。やがて論題のことはローマ教皇の耳にも入ります。以後、ルターはローマの使者の説得を受けたり、さまざまな討論に赴いたりしますが、自説を曲げることはありませんでした。ルターがすぐさま罰せられることはなかったものの、彼とローマの関係は確実に悪化してゆきました。
そして、破局の時が訪れます。ローマ教皇がルターの教えの中で認められないとする部分を指摘した勅書を出し、説の撤回を求めた時、ルターはこれを拒絶したのです。それも、人々の目の前で勅書を焼き捨てるという方法で。ついにルターは、ローマ教会から正式に破門されました。
それにしても、教会の扉に「九十五か条の論題」を貼り付けたり、勅書を焼き捨てるなど、ルターのやり方は時に過激でした。現在残るルターの肖像画を見るとかなり厳めしい顔つきに見えますが、見た目の印象通り、ルターとは相当気の強い人物であったようです。
改革の嵐
キリスト教世界の絶対的権威であったローマ教会からの破門。しかし、ルターはこれで潰れることはありませんでした。そもそも、「論題」でローマを真っ向から批判したり、教皇勅書を焼き捨てた時点でルターは逮捕、さらには処刑されてもおかしくなかったのです。そうならなかったのは、ルターには既に多くの支持者がついていたからでした。支持者には一般の民衆はもちろん、力ある諸候なども含まれていました。ローマ教会といえども、彼らの声を無視することはできなかったのです。
かくしてルターは一方的に断罪されることはなく、まずはドイツの議会に呼ばれました。そこで弁明せよというわけです。
しかし、議会においても、やはりルターは自説を曲げませんでした。結果、ルターは「法益を剥奪される」という処分を受けます。言い換えれば、法律と全くかかわりのない人間として扱う、ということです。例えば町中でいきなり殴られても、あまつさえ殺害されても文句は言えない立場に、ルターはなってしまったのです。また、それとともに著書についても禁書とされてしまいました。
いよいよ進退窮まったかに見えたルター。しかし、ここでもルターを支持する人々がルターを救いました。支持派の諸候が、自らの城にルターをかくまってくれたのです。
こうしてルターはとりあえずの安定を得ました。そしてこの間にルターは、聖書のドイツ語訳という重要な仕事に取りかかっています。後にルターは新約聖書、旧約聖書の訳出を成し遂げましたが、これらは聖書の普及という範囲を超え、ドイツ語そのものの完成にも影響したとまで言われています。
さて、そうしている間にも、ルターの起こした運動は、ますます巨大なものとなってゆきます。本格的な宗教改革が始まったのです。その影響は宗教界のみならず、すでに全ドイツのあらゆる部分に広がっていました。諸候達はルター支持派と不支持派に分かれたため、政治的な問題ともなっていました。ルターを支持する民衆が騒動を起こすこともありました。「農民戦争」と呼ばれる大きな暴動さえ起きたのです。ルターはこれらの騒動に対しては不支持を表明しましたが、農民達はそれに対して大きな不満を募らせたといいます。
ルターはこれらの宗教的な変革の中で、相変わらず一つの大きな支柱として認識されてはいました。しかし、事態は既にルター一人が統御しきれるものではない規模にまで成長していたことを示すエピソードです。
こうして、キリスト教世界そのものの変革という領域に、歴史は足を踏み入れました。
ところで、ドイツ皇帝はルター派を認めていませんでした。かといってルター派の諸候を叩き潰すことはできませんでした。それには圧倒的な軍事力が必要で、それがあったとしても、内戦の後にあるのは国土の荒廃です。そもそも当時のドイツには、フランスとの対立やオスマン・トルコとの戦争など、諸候と協力して当たらねばならない政治的課題が山積していました。
結果、ドイツ皇帝は一度はルター派諸候の信仰を認めるという手段に出ました。これでドイツにおけるルター派諸候の立ち位置は守られたかに見えましたが、やはり政治的事情から、その和解はほどなく破れてしまいます。ルター派諸候がこのことに抗議文を提出し、以後かれらは「プロテスタント(抗議する者)」と呼ばれるようになりました。
その後の宗教改革
ルターはその後も支持者の庇護を受けながら活動を続け、1546年2月18日に亡くなりました。
ルター亡き後も宗教改革の嵐はますます吹き荒れ、全ヨーロッパを巻き込みながら、宗教のみならず社会や政治まで変えてゆきました。ルター派とは異なる宗派も生み、時には凄惨な争いも起こしながら、宗教改革者たちはローマ教会とは別の大きな勢力へと成長します。はじめルター派諸候に対する呼称だった「プロテスタント」は、やがてこの時代に生まれた諸派一般を指すものになりました。かれらプロテスタントが力を付けてゆくにつれ、ローマ教会、すなわちカトリックの中からも、自らを変革すべきという人々が現れ、内部の改革を行いました。
最後に、宗教改革と日本のかかわりを示すエピソードを紹介しましょう。
日本の戦国時代にキリスト教者達が布教にやってきたことを覚えておられるでしょうか。最も有名なのがあのフランシスコ・ザビエル。その他にも数々の宣教師が日本を訪れました。実は、彼らはカトリックの宣教師達でした。当時のローマ教会は、布教活動を強化し、世界各国に宣教師を送り込んでいたのです。
なぜカトリックが世界戦略を意識するに至ったか。そこにはもちろん、宗教改革の影響がありました。前述したカトリックにおける内部改革の一例が、この世界への布教活動だったのです。
日本に来た宣教師達は精力的に活動し、それは着実に成果を上げてゆきました。一国を支配するほどの権力者もキリスト教徒となり、彼らは「キリシタン大名」と呼ばれました。天正遣欧使節が海を渡り、ローマ法王に謁見しました。日本でキリスト教が禁止されて以後も信仰の灯は消えず、江戸時代初期に発生した「島原の乱」では一揆側にキリスト教徒が数多く参加しています。
ルターの育てた宗教改革の芽は、はるばる海を超えて、私たちの日本にも確かな影響を与えていました。歴史の不思議さに目を見張る思いがします。
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