幕末・明治維新期の有名人物と言えば誰を思い出されるでしょうか。坂本竜馬が筆頭というところかも知れません。他にも勝海舟、桂小五郎、大久保利通、高杉晋作、土方歳三などなど、さまざまな「スター」の名が挙がってくることだと思います。
今回取り上げる人物はそんな維新の「スター」の一人、西郷隆盛。桂、大久保と並ぶ「維新の三傑」とされ、「西郷さん」「西郷どん」と今も親しまれる人物です。動乱の京都で大きな存在感を示し、維新後は新政府の重要ポストに就いたことはよく知られるところです。しかし、そこに至るまでの人生は「西郷ファン」でもない限り、知らない方が多いのではないでしょうか。
実は、西郷隆盛の前半生というのも、後半生に負けず劣らず波乱万丈です。ここでは西郷が維新の中心に躍り出てくるまでの前半生についてご紹介したいと思います。
お由良騒動
西郷隆盛は文政10(1827)年12月7日、薩摩藩鹿児島の下級藩士の家に誕生しました。幼名は小吉。後の通称として有名なものに吉之助があり、その他にもさまざまな名を使用していますが、ここでの表記は最も有名な「隆盛」の名に統一します。
西郷隆盛と言えば大きく強い武人というイメージがありますが、少年期の隆盛は学問に精を出していました。腕を怪我したために武道を行うことが困難となったからと言われます。この時期の仲間にあの大久保利通らがいました。
少年期から青年期に入ると隆盛は藩の書方助という役目についたのですが、その頃、薩摩藩に大きな騒動が持ち上がっています。いわゆるお由良騒動です。
お由良騒動とは、一言で言うと薩摩藩の後継者争いでした。時の薩摩藩主は島津斉興。その斉興には二人の後継者候補がありました。正室の子・斉彬と、お由良という側室の子・久光です。筋から言って薩摩藩の後継者は斉彬ですが、斉興はこの斉彬をひどく嫌っていて、久光の藩主就任を望みました。結果、藩内は斉彬支持派と久光支持派に分裂し、大変なお家騒動となったのです。結論から言うと、この騒動は斉彬派の勝利に終わり、斉興は隠居、斉彬は藩主となります。
さて、騒動の渦中、西郷家はというと斉彬派に身を置いていました。隆盛自身も、斉彬派のある武士が切腹を命じられた際の死に様に強い感銘を受け、斉彬の藩主就任を強く望んでいたと言われます。
斉彬に仕える
藩主となった斉彬は参勤交代のため江戸へ向かうことになりました。隆盛も家来の一員として江戸へと赴きますが、そこで転機が訪れます。江戸において隆盛は、斉彬の庭方役に任命されたのです。庭方役というと、普段は目通りも許されない藩主の側近くに仕えることのできる、藩主の秘書とも言うべき役目でした。
島津斉彬という人物は、当時としては珍しい開明派の大名です。藩政においてはさまざまな改革を進めて藩の力を高めました。また、西洋の事情にも明るく、藩のみならず、未来の日本像というものを描き得る能力を持つ人物でもありました。庭方役となった隆盛は、そんな斉彬の人柄や考え方に存分に触れ、斉彬にすっかり心酔してしまいました。
結果、江戸での隆盛は素晴らしい経験をすることになります。斉彬の考える新たな国家像とは、各藩が一致協力しつつ幕府・朝廷を中心とした中央集権体制を再確立し、開国して強い日本を作るというものでした。また、そのために斉彬は、次期将軍として一橋慶喜を推していました(※)。それらの目的を達するために、江戸での斉彬はさまざまな工作を行っていましたが、隆盛はその手足となって各地を飛び回ったのです。さらに江戸の知識人、例えば藤田東湖などの大学者と会見する機会も得ました。隆盛はこの江戸滞在期に、幅広いものの見方やさまざまな知識、人脈を得、政治というものに目覚めたに違いありません。
とは言え、物事はそううまく行くばかりではありません。これからの隆盛を襲う不遇は、まさにこの時の活動が原因だったのです。
※将軍継嗣問題については井伊直弼の回にも触れています。当時の幕府は、次期将軍として徳川慶福と一橋慶喜の二人の候補があり、激しい内部争いが起こっていました。
苦しみの時
安政5(1858)年、井伊直弼が大老に就任しました。直弼は慶福派の巨頭であり、そのことに反対する人々を次々に処罰しました。いわゆる安政の大獄です。結果的に一橋派は後継者争いに敗れ、斉彬の希望も潰えることとなります。しかもその直後、斉彬は伝染病でこの世を去ってしまうのです。後継の薩摩藩主には久光の子である忠義が就任しました。そして、藩の実権は斉彬を嫌っていたあの島津斉興が握ってしまったのです。
斉彬に心酔していた隆盛はショックだったことでしょう。薩摩藩そのものも、開明だった斉彬時代から一気に保守的に変わってゆくと思われました。それどころか、一橋派として走り回っていた隆盛そのものの立場さえ危うくなりつつありました。前途を絶望した隆盛は自殺しようとまで思いつめるほどでしたが、親しくしていた同じ一橋派の月照という僧に説得され、それは思いとどまります。
とは言え、隆盛の立場が危ういものであることには変わりありません。いよいよ幕府の追及が隆盛にも迫ると、当時京都にいた隆盛は薩摩へと逃げ帰りました。しかしそれでも幕府は追ってきます。いよいよ駄目だと思いつめた隆盛は、やはり幕府の手を逃れて薩摩に滞在していたあの月照とともに薩摩湾の海へ投身自殺をはかってしまうのです。一度は自殺を思いとどまらせた月照と共にということですから、よほどの絶望感だったのでしょう。
ところが、この身投げは失敗します。しかも、ともに身投げをした月照は死に、隆盛だけ生き残るという無惨な形ででした。隆盛の悲嘆はいかばかりであったでしょう。
一度目の帰還
ともかくも生き残った隆盛は、藩のはからいで奄美大島へと身を隠すこととなりました。この離島生活は三年に及びましたが、この間に隆盛は結婚し、子も授かりました。隆盛にとって久しぶりの穏やかな生活だったかも知れません。
しかし、隆盛が身を隠している間にも、時代は激しく動いていました。桜田門外の変により、井伊直弼がこの世を去りました。薩摩藩でも斉興が死に、藩の実権は藩主の父である久光に移りました。
藩の実権を握った久光は一橋慶喜を中央政界に送り出し、幕政改革を成し遂げることを目指しました。斉彬の遺志を継いだと言えるかも知れません。そのための手段として選んだのが、兵を率いて上洛し、幕府にプレッシャーを与えるというものでした。大計画です。この計画を実現するには、隆盛の力が是非必要ということで、隆盛はついに薩摩藩へと帰還することになります。これには大久保利通ら、すでに藩内で一定の地位を築いていた旧友達の口添えもありました。
こうして島から戻った隆盛でしたが、この計画にはあまり乗り気でなかったといいます。斉彬ならともかく(実は斉彬も死の前に同様のことを計画していました)、久光ではうまくいくまいというのです。しかしながら、藩の最高権力者がやるというのですから、隆盛は上洛の準備を進めました。
ところが、このタイミングで一騒動持ち上がります。それは京都・大坂における不穏な動き。どうやら一部の過激派志士達が、久光上洛のどさくさに紛れて兵を挙げようという計画でした。隆盛はこれを阻止するため、素早く大坂へと出向きます。
ところが、これがまずかったのです。隆盛の大坂行きは久光上洛準備中の事。そして久光に無断でした。久光はこれに激怒しました。何と隆盛を捕らえ、奄美大島よりさらに遠い沖永良部島に流してしまったのです。
再びの離島生活。しかも罪人としてです。隆盛は書物などに触れながら、静かに時を過ごしました。どうやら隆盛と久光は、まるでうまの合わない主従だったようです。
英雄誕生
隆盛は去ったものの、久光の上洛は一応の成功を見、一橋慶喜は将軍後見職という職にも就きました。このまま隆盛は離島で朽ちてしまうのか。もちろん、時代は隆盛を放ってはおきませんでした。
この時期、政治は混乱の極みにありました。幕府と朝廷の意見が対立し、幕府内部でも意見の対立が起き続けていました。京都では尊王、佐幕、攘夷、開国の各論が入り乱れ、志士達は争い、血風が吹き荒れていました。薩摩藩も長州藩などと激しく対立し、緊張が高まっていました。
この状況に対応できる人材が欲しい。そんな思いが藩にはあったのでしょう。久光は斉彬の懐刀であった隆盛を許すことを決定し、隆盛は再び政治の表舞台へと呼び出されました。時に隆盛、37歳。この時から、幕末の英雄・西郷隆盛の活躍が始まるのです。
以後の隆盛は、まさに日本史上に残る事件に次々と関わってゆきました。ざっと書き出すだけでも以下の通りです。
長州藩が京都で動乱を起こした禁門の変への対応。坂本竜馬の斡旋による薩長同盟の締結。数々の倒幕工作。江戸城無血開城の実現。
維新後の新政府においても中心メンバーとなり、特に陸軍の整備などに尽力。しかし、朝鮮半島に対する政策をめぐって大久保利通らと対立して辞職。鹿児島へ帰郷した後、不平士族に担がれ、叛乱軍のリーダーとなる。この叛乱軍と政府軍の戦いを西南戦争といい、隆盛はこの西南戦争において、その生涯を閉じる…
どれも教科書に載るほどの業績ばかりですが、そのほとんどが二度目の帰還以後の出来事でもあります。それゆえに、西郷隆盛とは、幕府最末期に突如出現したスーパーヒーローで、維新を引っ張り、近代日本の礎を打ち立てたのち悲劇的な死を迎えた男である、そう思われがちなところもあるようにも思われます。しかし、実際の西郷隆盛はそうではなかったのです。隆盛はその前半生においてさまざまな経験を積み、時には地べたを這うような苦しみを味わっていました。それが維新のヒーロー、西郷隆盛を作り上げ、あれだけの仕事をさせたということに違いありません。
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