江戸幕府が末期に差し掛かった頃に起こった「大塩の乱」。その首謀者が大塩平八郎です。幕府崩壊の遠因の一つとなったとも言われるこの乱はいかにして起こり、終わったのか。そして、大塩平八郎とはどんな人物だったのか。今回は大塩平八郎の生涯をご紹介いたします。
まじめ与力
寛政五(1793)年1月22日、大坂は天満の与力の家に、大塩平八郎は誕生しました。阿波生まれという説もありますが、大坂生まれ説の方が有力のようです。
与力というのは江戸時代における警察官のようなものです。主に町の行政や司法を担当する「奉行所」に勤務し、さまざまな役目にあたりました。与力は奉行所でも上位の役職でしたから、大塩の家はなかなかに裕福であったようです。
大塩が役目についたのはかなり早く、十代半ばには既に与力の仕事をこなしていたと言われます。また、非常に学問を好み、有名な学者にも師事して卓越した学問的センスを発揮したといいます。後には役目のかたわら「洗心洞」という私塾も開設しているほど。その一方で武術についても達人の域であったといいますから、この頃の大塩平八郎は文武両道で才気に溢れる、輝くような若者だったに違いありません。
大塩は与力として大いに活躍し、いくつかの事件を処理しています。その中でも大塩の人柄をよく現しているのが、奉行所での汚職事件の処理です。大塩が勤務していたのは大坂東町奉行所でしたが、反対側の西町奉行所にとんでもない人物が一人いました。吟味役のこの男は、奉行所勤務の身でありながら賄賂を取り、あろうことか立場を利用して犯罪にまで手を染めていました。大塩はこの男の罪を暴き、また、悪事で稼いだ金三千両を没収。その大金を貧しい民衆に分け与えたのです。吟味役は切腹となりました。まるで時代劇のような話ですが、真面目で弱いものに優しい大塩の性格がよく分かります。
しかし、これでめでたしめでたしとはなりません。この事件を通して大塩は、幕府機構の腐敗というものが凄まじい勢いで進んでしまっていることも痛感したに違いないのですから。
飢饉を目の当たりに
やがて大塩は養子に家督を譲り、先述の私塾における門弟の教育に専念するようになります。私塾は評判を呼び、経営も順調だったようです。
しかしそんな時、大坂を、いや、日本全体を揺るがす一つの天災が起こります。いわゆる「天保の大飢饉」でした。天候の不順、それに伴う大凶作が数年に渡って続き、民衆は餓えに飢え、日本各地で餓死者が続出しました。一揆や打ちこわしも起こりました。
しかし、こんな状況にありながら、商人たちは貪欲でした。天下の台所である大坂には各地から米が集まります。そこで大坂の商人達は、圧倒的に不足している米をさらに囲い込み、値段を釣り上げました。その一方で幕府の機嫌を取るために江戸には米をどんどん送り、民衆はさらに飢えたのです。
大坂に住む大塩はこれらの状況をその目前で見ていたのです。大塩は怒りました。何とかせねばならぬと考えたのでしょう。本来、この混乱を収めるのは奉行所の仕事です。元与力ということもあり、大塩は奉行所に対し、民衆に米を与えるよう説得を試みますが、不調に終わりました。役所が駄目ならということで大坂の豪商達のもとを訪れ、民衆を救えるだけの借金をしようとも試みましたがこれも不調。そうしている間にも、餓えに苦しむ民衆達は次々と死んでゆきます。大塩にとっては、万策尽き果てた、というところでしょうか。
ここで大塩は、自らの蔵書数万冊を全て売り払い、現金に替えるという行為に出ました。当時の書物は非常に高額でしたから、それはかなりの額になりました。これを苦しんでいる人々に少しずつ配ったのです。
そしてその直後、大塩は幕府に対して挙兵しました。与力を引退し、学問で身を立てていた大塩にとって、蔵書は自らの身体の一部にも等しい存在でした。それを売り払った時、心は既に決まっていたということなのでしょう。
大塩、立つ
大塩が挙兵したのは天保8(1837)年2月19日のこと。事前に私塾の門弟達と計画を練った末のことでした。挙兵の理由や決意をしたためた檄文も作成し、大砲などの武器も用意していました。
大塩は有名な「救民」の旗を掲げ、門弟ら約25人とともに豪商の屋敷を襲って火をつけ、倉を襲いました。大塩らの集団はいつしか人数も増え、最終的には300人ほどになりましたが、そこまででした。やがて強力な幕府軍が大塩らを鎮圧し、乱はわずか三日ほどで全て終息しました。これほどあっさり終わってしまったのは、決起直前に計画が漏れており、それによって幕府側が態勢を整えるのが早かったためとされます。ただ、計画がもし漏れていなくとも、戦いはせいぜい数日程度伸びただけで、大塩側に勝ち目のない戦であったのは確かだったでしょう。
敗北した大塩は仲間を逃げさせ、自らも大坂市中の一商家に潜伏します。それから約一か月の間は隠れ続けていましたがついに発見され、準備していた爆薬に火をつけて壮絶な最期を遂げました。
遺したもの
こうして大塩の乱は終わりましたが、それでも、大塩が残したものは少なくありませんでした。大塩の乱発生の報は全国へと広がり、人々に幕府の凋落を予感させました。大塩の檄文は、幕府の禁止にもかかわらず全国へと伝わり、読み継がれました。さらに、大塩の行動に共鳴した各地の人々が、大塩の同志、大塩の弟子を名乗り、いくつかの叛乱を起こしました。
これらの動きは、やがて来る激動の幕末へと繋がり、新しい明治と言う時代を生み出すエネルギーともなってゆくのです。
大塩の乱によって、大坂の町はその2割とも3割とも言われる面積が灰になりました。しかしそれでも、大坂の町で大塩を称える者は少なくなかったといいます。
明治維新を30年後に控えた時代の出来事です。
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