今回ご紹介するのは江戸中期の学者にして政治家、新井白石です。五代将軍・徳川綱吉のあとを受け、幕政の指揮をとった白石。その生涯は浮いて、沈んで、また浮いて、とさまざまなことがあったようです。
仕官し、浪人し…
明暦3(1657)年2月10日、新井白石は江戸で誕生しました。幼児から学問の才を見せていたと言われます。父は上総国(現在の千葉県)久留里藩という小藩に仕えていたものの、藩の内紛に巻き込まれたすえ、親子そろって追放されました。白石が二十歳の頃のことです。
浪人となった白石でしたが、数年後には幕府の大老であった堀田正俊に仕えることができました。しかしそれも束の間、何と堀田正俊は間もなく暗殺されてしまい、堀田家は没落してしまうのです。それからも白石は堀田家に仕えていましたが、主家の財政難のこともあり、三十代の半ばにそこを離れることとなっています。
よくよくついていないという感じですが、この波乱の中にあって、白石が続けていたことがあります。それは学問でした。久留里を出て浪人となった時も儒学や歴史学を独学し続けていましたし、後には儒学者である木下順庵にも弟子入りしています。
木下順庵は、五代将軍綱吉を教えたほどの大学者。室鳩巣(※)や雨森芳洲(※)など、数々の才人がその門下に名を連ねています。彼らの中に混じり、自らを研鑽した日々は、白石にとって貴重だったに違いありません。また、師の順庵も白石に目をかけ、兄弟子たちよりも丁寧に扱ったといいますから、彼の才能のほどがよく分かります。
※室鳩巣…後に白石の紹介で幕府のお抱え学者となり、八代将軍吉宗のもとでは改革のブレーンをつとめる
※雨森芳洲…後に対馬藩へと仕官し、朝鮮通信使の対応役として大きな業績を残す
運命の逆転
さて、そんな新井白石の人生に転機が訪れます。それは順庵から持ち込まれた仕官の話でした。仕官先は甲府藩。藩主の徳川綱豊は三代将軍家光の孫にあたる人物で、綱吉の就任前には五代将軍になると目されていたほどの人物でした。
順庵ははじめ、待遇の悪さから白石を甲府にやることを渋っていたようです。しかし白石の方がこの話を気に入り、結局白石は甲府藩の家臣となることに決定します。白石は三十代の半ばになっていました。
普通であればここで白石のキャリアは終わり、甲府藩で有能な家臣として一生を過ごした…となるところでしょうが、さらなる変化が白石にやってきます。それは、白石が五十代に差しかかった頃のこと。五代将軍の綱吉が亡くなり、何とその後継に、徳川綱豊、すなわち六代将軍徳川家宣の就任が決定したのです。白石も家宣によって幕府に取り立てられました。
藩を追われ、主君を殺され、苦難の前半生を送った白石でしたが、ここに至り、ついに幕政の中枢に立ったのです。白石は甲府藩と家宣の将来性を見抜いていたのかも知れません。慧眼の勝利といったところでしょうか。
改革政治を進めるが…
家宣は思慮深く英明で、綱吉時代の遺物である生類憐みの令を廃止し、浪費により逼迫しつつあった財政の改革も進めました。白石はその補佐役といった立場でしたが、家宣は将軍位についてからわずか三年余りで没してしまいます。後継の七代将軍家継は幼く、事実上、白石が幕府の最高責任者として新たな政策を打ち出してゆくこととなりました。白石の政治的な業績としては、皇家への待遇改善、朝鮮通信使への対応方法の変更、元禄期に下げられた貨幣品質の向上、金銀の海外流出を防ぐための貿易規制などがあります。
白石がリードしたこの改革時代は「正徳の治」と呼ばれますが、この「正徳の治」、長くは続きませんでした。将軍家継が成人することなく亡くなり、歴史に名高い八代将軍吉宗が就任すると、白石はその地位を追われてしまったのです。白石の行った改革はその多くが廃止され、また、幕府に納めた著書や資料の類も破棄されてしまいました。屋敷さえ取り上げられてしまったのです。この失脚は、急激で堅苦しい改革に対する反発、そして吉宗自身が白石のことを心良く思わなかったことなどが原因と言われます。
その後、白石は政治の世界に返り咲くことなく、享保10(1725)年5月19日に亡くなりました。享年68歳でした。
学者政治家
後半生でも浮沈を味わった白石でしたが、若い頃と同じく、学問だけは捨てることはありませんでした。むろん幕政の中心に立ってからも、数多くの著述を行っています。内容も歴史学、言語学から随筆、漢詩まで多種多様。有名なものに「藩翰譜」「読史余論」「折たく柴の記」などが挙げられるほか、「西洋紀聞」という、イタリア人漂流者から聞き取った海外情報の記録まであります。当時は西洋に興味を持つこともはばかられるような鎖国の時代でしたから、白石の好奇心の強さがうかがえます。また、これらの著述活動は失脚後も続けられました。むしろ失脚してから、本格的な学者生活が始まったと言った方がいいかもしれません。後世、白石は学者として高い評価を得ています。
ともかくも新井白石とは、政治の世界に生き、数々の浮沈を経験しながらも、学問という柱によって一本貫かれていた人物であったようです。生まれながらの将軍と言い放った家光から、学者肌の綱吉の時代を経て、正徳の治へ。それは、江戸幕府が武断の政治から文治の政治へ、不安定から安定へと移り変わる道程と重なります。学者政治家・新井白石はそういう時代の変化を象徴する人物だったように思えます。
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