誰もが知る音楽家の一人としてその名を残す人物、バッハ。「バロック音楽」時代を代表する音楽家であり、荘厳なオルガン曲などで大変有名です。このバッハ、実は音楽一家に生まれた、言わば音楽家のサラブレッドでした。今回はそんなバッハの生涯をご紹介します。
音楽の道へ
バッハは1685年3月21日、ドイツのアイゼナハという町に生まれました。父親は町の楽師で、小さなバッハに対して楽器の手ほどきなどをしました。バッハの伯父も有名な音楽家で、バッハにオルガンを教えたといいます。今で言えば音楽の英才教育を受けたというところでしょうか。
バッハが十歳になる頃、両親が亡くなり、バッハは兄のもとに引き取られます。前述の通りバッハ一族は音楽家の家系で、多数の音楽家を輩出していました。父も伯父も音楽家であったわけですが、この兄も音楽家でした。バッハはこの兄のもとでさらに音楽に親しみ、その才能を磨いてゆきます。
やがて15歳の年、バッハは教会の学校に入学しました。そこの聖歌隊に所属する給費生として学問に励み、18歳になるとアルンシュタットという町の教会にオルガニストとして就職。そこで何年かを過ごした後、今度はミュールハウゼンという町に引っ越し、やはり教会のオルガニストとして働き始めます。
順風満帆
ミュールハウゼンにおいてバッハは人生の転機を迎えます。それはマリア・バルバラという親戚(またいとこにあたります)の娘との結婚でした。
就職、結婚。順風満帆のようだったミュールハウゼンでの生活でしたが、バッハはこの地には1年ほどしか住まず、ワイマールという都市に移ります。
ワイマールにおいてバッハは宮廷オルガニストの職を得、オルガニストとしての名声を高めます。また、数多くのオルガン曲も作曲するなど、自らの音楽的手腕を大いに高めたのです。
しかし、バッハがワイマールの地を去る時がやってきます。きっかけは宮廷楽長の死でした。楽長の死後、当然後継を決めねばなりませんが、バッハはそれに選ばれなかったことに不満を持ち、当地を去ることを決意したのです。こうしてバッハは、10年近くを過ごしたワイマールを後にしました。
その最期
次にバッハが移り住んだのはケーテンという都市でした。この地で宮廷楽長の地位に就いたバッハは、それまでに行ってきたオルガン曲や教会音楽の作曲・演奏ではなく、それ以外の楽器や曲を扱うことが多くなり、音楽家としての新たな一面を輝かせることになります。
ケーテンに移り住んで3年が経った頃、妻マリアが亡くなり、その翌年には二人目の妻、アンナ・マグダレーナと再婚しました。
そんなケーテンでの生活は6年ほど続きました。バッハもケーテンの地に大変満足しており、他に移り住む気などなかったようですが、領主との疎遠や子供たちの成長など、さまざまな要因から大都市ライプチヒに移ることになります。ライプチヒでは教会の音楽監督に就任し、その手腕を発揮しました。この地位は事実上の市音楽監督にあたり、バッハはライプチヒの音楽の全てを執りしきったのです。
バッハはこの地で死ぬまでの27年間を過ごしました。あまり待遇は良くなかったものの精力的に作曲活動を行い、数多くの代表作を生み出しました。死の前年、バッハは眼病を患い、その視力をほとんど失いました。手術も行われましたが、それが失敗し、体力的にも大きなダメージが残りました。こうして1750年7月28日、バッハは65年の生涯を閉じました。
バッハの血
バッハは死にました。しかし、ここで忘れてならないのはその子供たちの存在です。バッハは二人の妻との間にたくさんの子供をもうけました(その数20人!)。その多くは幼くして亡くなってしまいましたが、無事成長した中で、音楽の道を選んだ者があります。特に有名な人物は以下の通りです。
第一の妻マリアとの間に生まれた子供たちのうちの二人、ヴィルヘルムとカール。彼らは立派な音楽家として成長しました。ことにカールは後に続く「古典派」と呼ばれる時代の基礎を確立した音楽家の一人と言われ、あのベートーベンにも影響を与えています。また、当時の人気でも父を遥かにしのぐものがあったといいます。バッハは一族の他の音楽家と区別するため「大バッハ」とも呼ばれますが、当時「大バッハ」といえばカールのことを指すほどだったのです。
第二の妻アンナとの間に生まれた子の中ではヨハン・クリスティアンが有名です。やはり古典派の基礎を築いた一人と言われ、モーツァルトなどに大きな影響を与えました。最終的にはロンドンへと渡って大成功し、全ヨーロッパ的な名声を得ています。
音楽一家であるバッハ一族。その血は子供たちにもちゃんと受け継がれ、また、バッハの音楽も彼らに受け継がれたのです。
華麗なる一族
現代におけるバッハは「バロック音楽の完成者、古典派以後の音楽の基礎を築いた大音楽家」として高く評価されています。しかし、カールやヨハン・クリスティアンが父をしのぐほどの名声を獲得したことからも分かるように、当時のバッハの評価は他を圧するというほどのものではありませんでした。素晴らしい音楽家の一人、というほどの位置づけだったと言ってよいでしょう。その評価が一気に高まったのは、実は19世紀に入ってからのことでした。作品群の見直しが始まり、それらが高い音楽性を備えているとされたのです。
しかし、作品そのものが持つ価値と同時に、音楽史全体を見渡した上でのバッハについても、注目すべきところがあります。子供たちが受け継いだバッハの音楽。そして、それらはベートーベンやモーツァルトにも受け継がれ、古典派という音楽の流れを形成しました。この歴史の流れをふまえることで、バッハの偉大さというものがもう一つ浮かび上がってきはしないでしょうか。
バッハの血族とは、大バッハを頂点に、一族で音楽の歴史に影響を与えた希有な例だと言えるのかも知れません。
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