鎌倉時代に誕生し、現在も日本仏教界で最多と言われるほどの寺院や信者を抱えている仏教教団・浄土真宗(真宗)。その開祖が鎌倉時代の僧・親鸞です。親鸞とはいかなる人物で、浄土真宗はいかにして人々に受け入れられたのか。今回はその道のりをご紹介します。
聖徳太子のお告げ
親鸞は承安三(1173)年4月1日に京都の公家の家で生まれました。少年時代のことはよくわかっていませんが、親鸞自身は9歳の年に早くも天台宗の高僧のもとへ出家しています。
範宴(はんねん)という名を持つことになった親鸞は、比叡山延暦寺において一所懸命に修行したといいます。当時は平安時代の末期。人々の生活は不安定で、源平の合戦も起こっていました。公家の時代から武家の時代に移り変わるちょうど転換点、まさに社会が激動していた時期です。そんな乱世が、宗教者である親鸞に与えた影響は小さくなかったに違いありません。
親鸞の修行は20年におよびました。しかし、親鸞はそれに満足できませんでした。比叡山を下りた親鸞は、聖徳太子が建てたと伝えられる六角堂に100日間こもって祈るという修行を行います。その中で親鸞は、ついに聖徳太子の夢告を得ることができたと伝えられます(当時、聖徳太子は信仰の対象としては一般的なものでした)。その内容とは「あなたが縁により結婚することになったとしても、私が女の身となってあなたと結婚しましょう。一生の間あなたを守り、死んだら極楽へ導きましょう」というようなものです。解釈が難しいのですが、日々の暮らしの中に仏の道や極楽への道は開かれているというようなことを表すと思われます。これを受け、親鸞は浄土宗開祖・法然の教えがお告げの内容に共通すると感じ、法然のもとへ弟子入りします。親鸞は法然のもとで修行に励み、弟子としても一目置かれるようになりました。しかし、そんな親鸞を大変な苦難が待ち受けていました。
苦難の道
法然の浄土宗は念仏を唱えることを重視し、それによって救われると説きます。この分かりやすく実践しやすい教えによって信者を増やしていたのですが、それが伝統的な仏教界の反発を招き、念仏を禁止せよという訴えが起こされたのです。これにより法然やその弟子たちは流刑や死刑という処分を受けることになりました。もちろん、親鸞も例外ではなく、越後方面へ流されることになります。
流刑となった親鸞は、同時に僧籍を取り上げられました。親鸞自身が言うところの「僧でもなく、俗人でもない」暮らしを当地で送ることとなったのです。
流刑の間、親鸞が何をしていたかはよく分かっていません。しかし、日々の暮らしの中で仏のことや、念仏のこと、救いのことを考えていたに違いないでしょう。また、この期間中、親鸞は結婚し、子ももうけたと言われています。聖徳太子の夢告のことが思い出されます。
さらなる布教
流罪になってより5年後、親鸞は法然とともに許されました。法然は間もなくこの世を去りましたが、親鸞は三十代後半とまだ若く、布教をめざして鎌倉幕府の本拠である関東へと移ります。やはりそこで「僧でもなく、俗人でもない」暮らしを続けながら念仏の大切さを説き、信者を増やしました。重要な著書の多くもこの時期に執筆が開始されました。
60歳を過ぎた頃、親鸞は京都へと戻りました。この時期になっても、伝統的仏教界、また鎌倉幕府からも念仏を唱える者に対して圧力がかけられていましたが、親鸞はそれにめげることなく執筆や布教活動を行い、90歳で亡くなりました。
暮らしの中で
基本的に親鸞以前の僧は、出家して俗世間との関わりを断ち、結婚もせず、肉も食べず、厳しい修行を行ってやっと仏の道を見いだすものでした。しかし、親鸞は結婚もしましたし、子供ももうけました。肉食も拒否してはいません。それまでの僧というものの立場を、ほとんど逆転させたと言えるかも知れません。それはやはり、聖徳太子の夢告や法然との出会い、僧籍を剥奪されたことなど、親鸞の波乱の歩みがそうさせたのでしょう。
上位身分の者だけではなく、一般の人々をどう救うかを求めた法然の考えを、親鸞は継承し、さらに独自の境地へと発展させてゆきました。それは、仏教そのものを一般の人々にも大きく広げるという役割を果たしました。これを境に、仏教は日本人の生活の中へ溶け込み、その後の日本人の精神に大きな影響を与えてゆきます。親鸞の没後、彼の弟子たちは親鸞を開祖とする新たな教団を立ち上げ、それは浄土真宗となり(親鸞自身はあくまで「法然の弟子」という立場であり、新教団を立てるつもりはなかったようです)、以後の日本史でも頻繁に顔を出す存在へと成長してゆきます。
もちろん学校で習う通り、この時代、法然や親鸞以外にも多くの僧たちが活躍し、様々な宗派が立ち上がりました。いわゆる鎌倉新仏教です。その担い手たちがそれぞれに日本の仏教界を変革し、その後の歴史に影響を与えたのですが、やはり生活者にひときわ大きな影響を与えたのは法然、そして法然の教えを受け継ぎ、さらに大きく広めて見せた親鸞です。宗教を意識する人が少なくなった現在でさえ、お盆、お彼岸、お葬式など、仏教に関連する要素が暮らしの中で自然に現れてきます。その意味で、親鸞の業績は大きいのです。
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