本居宣長。国学の巨人と言われます。しかし宣長の業績とは、その国学の発展・完成に貢献したばかりではありませんでした。彼の業績とはどんなものだったのか。今回は本居宣長をご紹介いたします。
商才なし、学才あり
本居宣長は享保15(1730)年5月7日、伊勢国(現在の三重県)の商家に生まれました。宣長の誕生前後の時期には商売はなかなか順調で、金持ちと言ってもいいほどの家だったようです。しかし、徐々に商売は上手く行かなくなり、宣長が少年の頃、ついに父が亡くなりました。あとを継いだ兄も、宣長が二十歳を過ぎてしばらくした頃に亡くなり、いよいよ家は危機的状況に…ここで普通なら宣長が家督を継ぎ、商売の立て直しに頑張るものですが、宣長はその道を選びませんでした。そこには宣長の母の影響がありました。
それまでに宣長は商売の修行などもしていたのですが、どうもその方面に才能はなかったようで、宣長の母がそれを見抜いていました。そこで母は、宣長に学者の道を選ぶよう勧め、結果として宣長は、京の都へ医学の修業に出ることになるのです。ここで母が、宣長を無理に商人の道へ進ませていたらどうなっていたか。のちの大国学者は誕生していなかったかも知れません。母は強しというところでしょうか。
三つの業績
京都へ出た宣長は医学の修行に励みました。そしてこの時期、当時の学界に大きな流れを生み出した荻生徂徠の徂徠学と出会い、国学とも出会います。宣長の後半生は、この時期に決定されたと言ってもいいでしょう。京都で大いに学んだ宣長は、故郷に帰ると医師として開業しました。28歳の時のことです。
それからの宣長は医師としてもなかなか活躍したようですが、やはり重要なのは国学者としての活躍の方でしょう。宣長は71歳で死ぬまでに、重要な著作・業績を数多く残しました。以下では、宣長が生涯になした重要な三つの業績をご紹介します。
『古事記』研究
本居宣長といえば『古事記』の研究が有名です。30代から60代まで、およそ35年の歳月をかけて大著『古事記伝』も完成させています。内容は『古事記』の詳細な注釈です。
この著作の重要な点は、内容もさることながら、その手法にもあります。そもそも歴史の研究というのは、史料を重要な基点として行います。史料を徹底的に読み解くことで、歴史を解き明かしてゆくわけです。この手法を体系化して近代の歴史学を構築してきたのは主に西洋の学界でした。しかし宣長は、全く同じではないにしろ、それと共通点のある手法で『古事記伝』を作っています。これは当時としてはほとんど前例のないやり方でした。
『源氏物語』研究
日本の古典研究に尽力した宣長は『源氏物語』の研究も行いました。分野としては文学ということになるでしょう。この『源氏物語』研究において宣長は「もののあわれ」という文学におけるコンセプトを提示します。『源氏物語』は日本的な心情である「もののあわれ」を表現した作品であり、文学そのものが「もののあわれ」を表現するという大きな役割を持っていると唱えたのです。当時、物語とは儒教的な教訓や仏教的な教訓を表現するのが当然という風潮がありました。そんな中で「もののあわれ」というコンセプトは極めて斬新なものでした。いや、そもそも文学の機能や役割というものを一つの言葉ではっきりと打ち出すという考え方自体が新しかったのです。
日本語研究
読解という面で『古事記』の研究とも重なる部分もありますが、日本語の研究においても宣長は大きな業績を残しました。日本語という言語を体系的に研究したほとんど最初の人物と言えるほどで、品詞の研究、古代の仮名の研究などを通して日本語のさまざまな法則を明らかにし、日本語を分類しました。そのクオリティは大変に高く、現在の日本語研究にさえ直接的な影響を与えているほどです。
これらさまざまな研究成果を残し、享和元(1801)年9月29日に本居宣長はこの世を去りました。
先駆者・本居宣長
『古事記』の研究にしても「もののあわれ」にしてもそうですが、宣長の学問とは常に斬新でした。これらは江戸後期の学問はもちろんのこと、明治以後の学問にも大きな影響を与えています。
近代以後、日本は西洋文明を物凄いスピードで受け入れました。その原因に「江戸時代の蓄積」があったということがよく言われています。学問にしろ思想にしろ経済にしろ、江戸時代にはかなりのレベルにまで到達しており、その蓄積があったからこそ、急激な異文化の流入にも無理なく対応できたという考え方です。宣長とは、そんな蓄積を作った人物の一人ではなかったでしょうか。
また、本居宣長は国学者です。日本と日本人に注目し、その内容や精神を掴んでゆこうとする姿勢が基本にあり、それは学問の中身にもよく現れています。宣長の学問が大変完成度の高かったこともあり、この姿勢や思想は後世に大きな影響を与えました。プラスの方向、マイナスの方向どちらとは言えませんが、これもやはり「蓄積」の一つだったように思えます。
近世と近代をつなぐさきがけとなった人物。その意味において、本居宣長とその業績は今も燦然と輝いているのに違いありません。
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