今回紹介するのは明治期の文筆家・小泉八雲です。外国から日本を訪れ、そのまま帰化して日本人となった八雲。当時としては非常に珍しい経歴です。そんな小泉八雲の生涯とは、果たしてどんなものだったのでしょうか。
波瀾万丈の青春時代
後の小泉八雲こと、ラフカディオ・ハーンが誕生したのは1850年6月27日。場所はギリシャのレフカダという小さな島でした。「ラフカディオ」の名もこの島の名に由来しています。父はイギリス人の軍医、母はギリシャ人でした。ハーン誕生後しばらくして、一家は父の地元であるイギリスへと帰りました。しかしハーンが6歳のときに両親は離婚してしまいます。その後、父は再婚し、母はギリシャに帰国したため、一人残されたハーンは資産家だった大叔母のもとで養育されることとなります。
ここまででもハーンの人生は決して幸福とは言えないものだったでしょうが、さらに不幸が襲います。大叔母のもとでハーンはイギリスやフランスの学校に通い教育を受けましたが、その間に事故で左目の視力を失い、父が急死し、さらには大叔母が破産してしまったのです。生活も一気に苦しくなり、ほとんど放浪者のような生活を送る羽目になったハーンは、新天地を求め、大したあても無いまま、何とアメリカへと渡ります。この頃、ハーンは20歳そこそこ。何とも過酷な青春時代を送ったと言わざるを得ません。
日本に憧れて
アメリカに渡ったハーンは、主に新聞記者を生業として暮らしてゆきます。はじめは上手くいきませんでしたが、各国文学の翻訳などを通して徐々に名前が売れ始め、渡米後十年も経つ頃には評判の記者となっていました。
さて、当時のハーンはアメリカ南部のニューオーリンズという街に住んでいました。これ以前より、ハーンは遠い外国や東洋の文化などに惹かれる気持ちを持っていたようですが、そういう傾向をさらに強める出来事が起こります。それはニューオーリンズで開催された万国博覧会でした。この万博には日本からの美術品の出品などもあり、それらはハーンの心をとらえました。ここでハーンは日本という国を意識し、憧れを持つようになったといいます。
その数年後のことでした。ハーンは、ハーパー社という会社と日本についての記事を執筆する契約を結びました。それは特派員として日本へ渡る機会を得たということを意味します。こうしてハーンは日本へ行くことになったのです。
日本に暮らす
ハーンが日本の地に立ったのは40歳の時でした。1890年ですから、年号で言うと明治23年ということになります。日本全体が近代化を目指していよいよ猛進しようとしていた時期にあたりますが、維新からたかだか20年、まだまだ江戸期の雰囲気も残っていたはずです。
そんな日本の空気は、ハーンにとって大変満足できるものだったようです。ハーンは日本研究に専念することを決意し、ハーパー社との契約を破棄しました(契約条件の悪さも原因だったようです)。この時点でハーンは無職となったのですが、つてを頼り、英語教師としての職を得ます。赴任先は島根県の松江でした。
島根でハーンは日本の暮らしを愛し、溶け込んでいったようです。日本の女性とも結婚しました。しかし、暖かい土地での暮らしが長かったせいでしょうか、島根の冬の寒さはハーンにとって堪え難く、1年ほど後に熊本へと移住し、さらに神戸へ移住しました。日本研究も進めており、いくつかの著書も刊行しています。
ところで、この頃にハーンは日本へと帰化し、妻の姓である小泉の名をもらい「小泉八雲」と名乗りました。「八雲」というのは古歌における「出雲」の枕詞「八雲立つ」から取ったものです。出雲といえば現在の島根。つまり、はじめに定住した島根と縁の深い言葉というわけです。わずかな期間しか住まなかったものの、島根の地に愛着のあったことがわかります。
この世を去る
日本へやってきて6年が経ったころ、八雲は東京帝国大学の英文学講師となりました。学生からの評判も高く、教育者としての才能を存分に発揮したようです。
東大講師の職に就いていたのは約6年の間でしたが、この間に八雲は大変多くの著作も発表しています。古き日本の文化や情緒、物語などを分析・紹介するものが多く、八雲の日本研究の質の高さをうかがわせる作品ばかりです。
その後、東大を辞した八雲は早稲田大学の講師となりましたが、その約半年後、1904年9月26日に狭心症のため突然この世を去りました。
八雲が見た「古き日本」
ところで、八雲の作品で最も有名なものといえば『怪談』と思われますが、それは八雲の死後に出版されました。日本の古い物語を収集・再構成した『怪談』は、八雲の日本に対する鋭い感覚を感じさせてくれます。他の多くの著作は『怪談』ほど日本人には知られてはいませんが、古き日本を外国人の目から深く洞察したものとして貴重な文献となっています。
晩年の八雲は日本から日本らしさが失われつつあると感じ、失望と悲しみを強くしていたと言われます。維新によって近代化という道をを選択し、バイタリティに溢れていた当時の日本と日本人にとって、その悲しみは恐らく理解しにくかったことでしょう。海外から来た八雲だからこそ感じ取れていたことだったとも思えます。古き日本がほとんど失われ、また、その価値がようやく見直されつつある現代、改めて八雲の思いというものが理解できるようにも思われます。
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