中国唐王朝第六代皇帝・玄宗。唐の絶頂期を作り出したと言われる皇帝です。その人生は山あり谷あり、大変に波乱に富んだものでした。また、玄宗の時代は日本にも多少の影響を与えた治世でもあります。今回はこの玄宗皇帝の生涯と治世をご紹介いたします。
皇帝誕生
玄宗の名は李隆基といい、垂拱元(685)年8月5日、皇帝睿宗(えいそう)の第三子として洛陽において誕生しました。この頃の唐王朝は非常な混乱の中にありました。時の皇帝の后、すなわち皇后であった人物が権力を伸ばしていたまっただ中だったのです。やがて彼女は、みずから皇帝の座について新王朝を打ち立てました。これがいわゆる武周時代であり、皇帝とはかの則天武后です。武后はその一族と寵臣で政権を固め、唐王朝の一族は隅に追いやられているような状況でした。後の玄宗、李隆基はそんな中で育ちます。
しかし、そんな則天武后もやがて病に倒れ、武周時代は終わり、かつての皇帝が復位するという形で唐王朝が復活します。ただし、クーデターや戦で武周が終わったわけではなかったため、その時点では武后を支えた人物がまだまだ王朝内で勢力を張っている状況ではありました。そんな中、さらなる政変が王朝を襲います。時の皇后が皇帝を暗殺してしまうのです。則天武后と同じく、皇后でありながら自らが政権を牛耳る、そんな野望のためでした。さらに彼女らは、王家や武后一派の邪魔者を暗殺し、政権を完全に掌握しようと企図するのです。まさに唐王朝は混乱の極みにあったと言えるでしょう。そして、ここで立ち上がるのが若き日の玄宗、李隆基でした。
敵の敵は味方と言ったところでしょうか、隆基は武后一派と協力し、政権乗っ取りをめざす皇后らの殺害に成功しました。これによって隆基はとうとう皇太子の位についたのです。その後、隆基と武后一派との間の勢力争いなども起こりましたが、隆基が皇位について玄宗となった後、彼らも一掃され、ついに則天武后の時代から続いた政権の混乱は終息をみました。玄宗、28歳の時のことでした。
開元の治
その後、玄宗は政治改革を断行します。武后時代からの血族・特権政治を改めることはもちろん、科挙の制を通過してきた優秀な実務官僚を重要ポストに登用し、宦官(かんがん)を政治に参画させないようにしました。税制も整理し、ルールどおりの徴税を行いました。その結果、唐は非常な繁栄を見せ、その絶頂期を迎えることとなったのです。この時代は年号を取り「開元の治」と呼ばれています。
政治に飽きる
しかし、この繁栄の時代を経て、玄宗に変化が起こります。それは政治に対する意欲の低下でした。ちょうどそんな時、玄宗の前に一人の女性が登場します。
玄宗は皇帝ですから、数多くの妻がいました。在位も二十数年が過ぎた頃、寵愛していた后が亡くなったのですが、そこで目を付けたのが楊氏という女性でした。玄宗は、三十歳以上も年下であったものの、美しく聡明な楊氏のとりこになり、やがて彼女を貴妃という妃の中で最高の位につけることとなります。かの楊貴妃の誕生でした。
こうして玄宗は彼女との関わりの中で、政治への興味をますます失ってゆくのでした。
安史の乱
そんな時、大事件が起こります。後世、「安史の乱」として知られる反乱です。
先に述べたように、楊貴妃が玄宗の寵愛を受けるようになったのですが、それと同調するように昇進を重ねた官僚がありました。それは楊貴妃の親族であった楊国忠という人物でした。かれはやがて宰相(官僚の最高位)にまで上り詰めます。一方、当時の唐には、地方を管理する責任者として「節度使」という職がおかれており、その節度使に安禄山という人物がいました。かれは広大な区域を管理・統治しており、能力も高く、玄宗の信任のもと中央政界にまで進出しようとします。それに反対したのが楊国忠でした。安禄山と楊国忠の対立は激しさを増し、とうとう安禄山は挙兵します。これが「安史の乱」のあらましです。
さて、安禄山の軍は電光のごとく進撃し、有数の大都市であった洛陽をあっというまに陥落させてしまいました。首都の長安も危うく、玄宗は楊国忠らとともに都から逃げることになってしまいます。ところがその逃避行の最中、同行の将兵が反乱とも言うべき動きを起こします。安禄山の挙兵の原因となったのは楊国忠である、という不満が反乱の原因でした。その結果、楊国忠は殺されます。将兵の怒りは縁続きである楊貴妃にも向けられ、玄宗はやむなく楊貴妃に死を賜ることになってしまいました。こうして何とか都から逃げ延びた玄宗でしたが、もはや彼に皇帝としての力は残っていなかったのでしょう。間もなく皇帝の座を息子に譲ることになるのです。
この後、安禄山の軍はついに長安を落とします。反乱は10年近くも続きましたが、やがて唐王朝側が勢力を盛り返し、長安を取り返します。玄宗も長安に帰還したものの、宝応元(762)年4月5日にこの世を去ります。78歳でした。
玄宗と唐
唐皇帝・玄宗。かれは、英明と暗愚の両面を抱えた人物だったと言えるでしょう。絶頂期たる開元の治から、安史の乱へ。その激動はまさに玄宗の二面性と重なっています。歴史はまさに人によって動く。その端的な例を示しているという気がします。
ところで、この唐という帝国と玄宗皇帝の時代は、日本にも関わりのない時代ではありません。
玄宗の在位は日本で言うと奈良時代。あの遣唐使がさかんに唐をめざした時代です。その遣唐使に阿倍仲麻呂という人物があります。入唐後、官僚として順調に昇進した人物ですが、彼が活躍したのはまさに玄宗の治世でした。
また、玄宗と楊貴妃の関係をうたった「長恨歌」という漢詩も、日本人に好まれてきました。平安の王朝文学をはじめ、さまざまな文学や絵画に影響を与えた作品です。
しかし、安史の乱を境として唐王朝は下り坂に向かい、玄宗が死んで百三十年ほど後、ついに遣唐使は廃止されます。日本人にとって唐の時代とは、そしてその中心にある玄宗の時代とは、大中国に憧れ、長安を目指した最後の時であったのかもしれません。
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