大航海時代から産業革命を経たイギリスが、世界の覇権を手にしていた時代。その力は凄まじく、まさに世界を左右する国家であったと言っても過言ではありません。そんな近代イギリスの礎を築いた人物が、今回ご紹介するエリザベス1世です。「よき女王」として今もイギリス人に愛されるエリザベス1世の生涯を追ってみましょう。
波乱の王位継承
王位をめぐる動きというのはどこの世界でも「ややこしい」ものですが、エリザベスの時代も、きわめて「ややこしい」ことになっていました。
まず話はエリザベス1世の父、ヘンリー8世から始まります。このヘンリー8世、日本人にはあまりなじみのない名前と思われますが、実はイギリス史上においてはかなり重要なことをやってのけています。それは「イギリスをローマの権力から離脱させた」ことです。詳しいことは省きますが、ヘンリー8世は自らの離婚を成立させるため、当時離婚を認めていなかったローマ教会からイギリスのキリスト教会を離脱させ、自らをそのトップに位置づけました。こうしてローマの権力と縁を切ったヘンリー8世は第一の妻と離婚し、第二の妻と結婚します。この第二の妻との間に誕生したのがエリザベスでした。
さて、国家そのものを巻き込んだすったもんだの末、ヘンリー8世は新たな妻を迎えたわけですが、何と彼女はまもなく処刑されてしまいます。罪状は姦通などでしたが、これは無実の罪で、男子を生むことができなかったために王に疎んじられたことが実際の理由であったようです。こうしてエリザベスの母が無惨な死を遂げたわけですが、その時エリザベスはかなり幼かったため、格別の影響を受けたということはありませんでした。
ヘンリー8世はその後も離婚と結婚を繰り返し、結局合計6人の女性と結婚して生涯を終えます。その後、6番目の妻の子・エドワード6世がわずか9歳にして王位を継承しました。この時、エリザベスは14歳です。
女王の誕生
王位についたエドワード6世でしたが、彼は生来病弱で、若くして亡くなりました。次の女王となったのはヘンリー8世の最初の妻の子、メアリー1世です。
さて、ヘンリー8世の治世においてイギリスがローマ権力から離脱したことは既に述べました。ところがこのメアリー1世は、カトリックの信仰者でした。カトリックの総本山はすなわちローマです。カトリック信者であるメアリー1世は、ローマと縁を切ったイギリスを再びその勢力下に戻そうとし、反対するものを次々と処刑してゆきます。そのため「血まみれメアリー(ブラッディ・メアリー)」というあだ名さえ生まれました。しかし、そんな治世が長持ちするはずもなく、人心は離れ、やがて彼女自身も病でこの世を去りました。そして、その後を受け継いで女王として立ったのが、エリザベス1世だったのです。エリザベスは25歳になっていました。
エリザベス1世の政治
以上のような経緯で女王になったエリザベス1世でしたが、王位についてからの彼女の活躍は目覚ましいものがありました。以下では彼女の政策を大きく2つに分けてご紹介いたします。
宗教政策
何度も触れた通り、当時のイギリス宗教界は非常に混沌としたものでありましたが、エリザベスはそれに柔軟に対処し、安定したものへと変えてゆきました。そもそも混沌の原因はローマからの離脱であり、国内的にもカトリック勢力とイギリス国教会勢力(プロテスタント)との対立が問題となっていました。メアリー1世はカトリックを保護し、プロテスタントを弾圧したわけですが、エリザベスはそういった手法をとることはありませんでした。イギリスという国家そのものをローマから切り離し、イギリス国教会を最高の教会とするという方針は変更しなかったものの、国内的にはカトリック、プロテスタントの双方の信仰を認めたのです。その結果、国内の宗教界は安定することになりました。
外交政策
当時のヨーロッパでもっとも貿易に長けていた国家の一つにスペインがあります。スペインなどと比べると、イギリスの貿易力は数段落ちるものでした。イギリスは島国であり、貿易によってその国力を増すことは当然の選択ではあったものの、それをかなえるにはスペインを打倒する必要があったということです。自然、イギリスとスペインの対立は深まりました。このような情勢の中、エリザベスはその政治力でスペインとの対立を鮮やかにくぐり抜けてゆきます。一方でスペインとの友好を進め、その一方でイギリスの船にスペインの船を襲わせるようなことも行いました。また、スペインと対立する大陸の国々をけしかけ、スペインの動きを封じることも行っています。こうしてスペインとの全面対立を引き延ばせるだけ引き延ばし、いよいよ戦争に踏み込んだときには「無敵艦隊」とまで呼ばれたスペインの海軍を打ち破るという成果を上げました。これにより、イギリスが世界最強の大貿易国家となるための布石が打たれたのです。
イギリスの飛躍
エリザベス1世は1603年3月24日に69歳で亡くなりました。宗教、外交の諸政策に冴えを見せた生涯でしたが、もちろんその他にも数々の政策を実行しています。貨幣経済の安定策や貧民の救済策、貿易振興策などが代表的なものです。さらに、エリザベスの治世は安定の上に文化の花が咲いた時代でもあります。シェイクスピアなどの文豪が活躍したのも彼女の時代のことでした。これらのことから、エリザベス1世の治世は、イギリス史上でももっともよい時代の一つと言われています。
彼女に子はありませんでした。それどころか、生涯を独身で通しました。彼女の死後、直系の子孫による王位継承はなく、イギリス史においてはテューダー朝が終わり、ステュアート朝の時代に移ったということになります。
エリザベスが独身を貫いた理由についてはさまざまな説がありますが、確からしい理由の一つは「政治を有利に進めるため」というものです。外交にしろ内政にしろ、強力にことを進めるためには、傍らに夫がいるとむしろ邪魔になると、エリザベスは考えたに違いありません。その手腕で覇権国家イギリスの礎を固め、国民からも敬愛された女王は、人生を国家と国民に捧げたのでしょう。
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