徳川吉宗といえば江戸幕府の将軍の中でも有名な人物の一人。歴史の教科書では必ず取り上げられますし、時代劇のヒーローとして親しまれたこともあります。そんな徳川吉宗ですが、実際の歴史の世界においても「享保の改革」を指導した将軍として大変重要な存在です。そんな徳川吉宗の生涯、そしてその業績はどのようなものだったのでしょうか。
※徳川吉宗は幼少時から何度か改名していますが、以下では「吉宗」の名で統一します。
転がり込んだ藩主の座
貞享元(1684)年10月21日、紀州藩主の四男として徳川吉宗は誕生しました。紀州藩といえば徳川家康の血を引く家の中でも別格、「徳川御三家」の一つ。尾張藩、水戸藩と並んで、将軍を出すことすらできる名門中の名門です。しかし吉宗の場合は兄が二人(もう一人の兄は早くに亡くなりました)おり、生母の身分も高くなかったため、藩主になる可能性はほぼありませんでした。結果、元服してから越前(現在の福井県)に小さな領地を賜り、そこの藩主としておさまることになりました。本来なら吉宗は、その小さな領地で穏やかな生涯を送るはずでした。
ところが、吉宗が二十歳になった頃、紀州藩主となっていた兄が亡くなるという出来事が起こります。後をもう一人の兄が継いだのですが、なんと彼もわずか数か月後に亡くなってしまいます。ここに至り、御三家・紀州藩の藩主の座が吉宗に巡ってくることとなりました。
ついに将軍に
こうして紀州藩主となった吉宗でしたが、その時の藩の状態は決して順調とは言えませんでした。政治は緩み、また財政的にも厳しい状況でした。そこで吉宗は藩政改革に着手しました。そこでとった倹約政策や人事改革は有効で、藩の状態もかなり回復したといいます。
そんな折、中央の政治でも動きがありました。それは七代将軍・徳川家継の死でした。家継はまだ幼く、後継者のないまま亡くなったため、八代将軍を誰にするかということが大問題になります。当時の決まりによれば、中央で将軍を継げる者がいなくなった場合、御三家から次の将軍が出ます。しかし、その後継者は御三家から平等に候補を出して吟味するわけではありませんでした。実は御三家の中にも家格というものがあり、最も上位にあたるのは尾張藩とされていました。そのため、中央の将軍後継者が途絶えた場合、まず尾張藩主が将軍の最有力候補となるのが自然な流れだったのです。
御三家の当主であった吉宗にも将軍位に就く可能性があることは言うまでもありませんが、以上の理由から、かれが将軍になる可能性は小さなものでした。
ところが、歴史が示す通り、ふたを開けてみれば八代将軍の座に就いたのは吉宗でした。これは年齢や人柄から言って最適格であり、吉宗を推す声が高かったためと伝えられています。その一方で、吉宗の裏工作説、陰謀説なども存在していますが、これらはもう一つ決め手に欠けるようです。ともあれ吉宗は、紀州藩主の座、将軍の座と二度続けて、ほとんど奇跡のような可能性をつかみ取ったのです。
享保の改革
吉宗が将軍に就任した時、幕府は財政難に陥っていました。そこで吉宗は幕府を立て直すべく、改革政策を次々と打って行くことになります。これら一連の政治政策が、享保の改革と呼ばれるものです。
前述の通り、紀州藩主になったときも藩の状態は悪く、それを立て直すために吉宗は奮戦しました。そして今度はもっと大きなものを立て直すための政治を行うことになったのです。吉宗とはそういう星のもとに生まれた為政者だったのかも知れません。
さて、まず吉宗がとった政策は、人事の整理です。江戸幕府では、トップに将軍、そしてその下に老中たちが付き、彼らの手によって政治が進められるという形をとっていたのですが、五代将軍の綱吉以後、その原則は緩んでいました。老中のほかに将軍の側近(側用人)たちも権力を持つようになっていたからです。当時の幕政は言わば側近政治とも言える様相を呈していました。そこで吉宗は原則に立ち戻り、将軍や老中などの本来権力を持つべき人々を重用して政治を行い、同時に将軍の権威も高めるという方策をとりました。これで幕府中枢に一本柱が通ることとなります。
そして、享保の改革において最も重視されたのが、一連の経済政策です。吉宗は経済対策として、通貨の流通量を抑え、消費を抑制するよう民衆に命じ、元禄時代から続いていた贅沢な消費生活を改めさせました。これが有名な倹約政策ですが、実はこれはあまり効果を上げていません。逆に過度の消費低迷に陥り、不況を生み、幕府の財政にも回復は見られませんでした。そこで吉宗は、もっと根本のところから財政を立て直す手法へと切り替えます。それが新田開発、ならびに年貢の徴収率の増加でした。この政策についても、農民の不満を招いたり、不作に直撃されたりと、はじめから上手くいったわけではありませんでしたが、それでも年貢額は徐々に増加してゆきます。米が増えた分、柔軟な米取引を認めるなどの政策もとり、相場の暴落や暴騰がないようにも気を配りました。これらの政策が実を結び、吉宗が将軍を辞める頃には、幕府財政も国内経済もなんとか安定したのです。
なお。その他の分野についても、吉宗は各種の政策を実行しています。代表的なものを列挙すると、
・町火消しの創設
・裁判制度の整備、判例集・法令集の整備
・目安箱の設置
・貧困者のための医療施設(小石川養生所)設置
・洋書禁止策の緩和
などがあります。いずれも将軍の強いリーダーシップが垣間見える政策であり、吉宗が行おうとした政治の「型」が想像できます。
幕府というシステムの中で
さて、吉宗の政治をざっと見渡してみると、将軍の「権威」を重視し、それを最大限に生かしたものと感じられます。庶民の統制に心を砕き、幕府が庶民を教え導く政治というような印象もあります。教導的、あるいは管理的と言ったらよいでしょうか。それは幕府創立時の理念に立ち返る政治でした。洋書解禁など、いくつかの進歩的な政策もあったものの、それらも「幕府」の枠において許される限りの内容でした。享保の改革の成功とは、幕府政治そのものの変革ではなかったのです。
吉宗が幕政から去った後、幕府の状態は再び悪化してゆきます。これを上向かせるため、さらなる大改革、「寛政の改革」「天保の改革」も行われました。これらは享保の改革に強い影響を受けたものですが、いずれも失敗し、かえって幕府の命脈を縮めたとも言われます。そもそも、享保の改革というのは大成功のイメージで捉えられることが多いのですが、案外そうではなかったのです。まずまずの成功を納めたという程度です。
吉宗の時代は、江戸幕府成立より百数十年経っています。つまり、享保の改革時点で、「幕府」というシステムは限界が近づいていたということなのでしょう。享保の改革とは徳川吉宗という才能を得て、江戸幕府がやれた最後の成功と言えるかも知れません。江戸幕府最後の将軍はご存知の通り十五代徳川慶喜ですが、ある意味、徳川吉宗が「江戸幕府」の「最後の将軍」だったのではないかという気もします。
吉宗は約三十年の間将軍の座にあり、その後、長男の家重に将軍職を継承させて自らは一線を退きました。とは言え、引退将軍である「大御所」として、政治には関わり続けています(九代家重は知的障害があったとも、言語障害があったとも言われ、そのために吉宗が政務を執り続けたともされます)。吉宗は将軍を辞めてのち6年間生き、寛延4(1751)年6月20日に亡くなりました。67歳でした。
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