昔から「偉人」の代名詞と言っていいほどの知名度を持つ人物・野口英世。最近はついに千円札の肖像画にもなりました。貧窮の少年時代を乗り越えて世界的な名声を獲得し、研究の中に殉職するというその生涯には、なるほど偉人伝となるに充分な劇的さがあります。今回は、そんな野口英世の生涯を改めて見てみましょう。
驚異的なスピードで医師に
1876(明治9)年11月9日、福島県の農家に野口英世は誕生しました。幼名は清作といいました。家は大変に貧しく、また、父親が大酒飲みの不真面目な男であったため、野口はほとんど母の手によって育ち、しつけられたといいます。
まだ物心つかない頃、野口の身を不幸が襲いました。当時の農村ならどこにでもあった「囲炉裏(いろり)」の中に転げ落ち、左手をやけどするという出来事です。結果的に野口は、左手の指がくっつき、自由に使うことができなくなるという重い障碍を負うこととなります。
手の障碍により、家業の農業を継ぐことは到底不可能になった野口にとって、将来身を立ててゆく手段は学問以外になくなってしまいました。やがて小学校に入学した野口は猛勉強し、抜群の成績をおさめます。野口はさらに上の学校をめざしますが、野口家にはお金がなく、進学は難しい状態でした。この時、野口の秀才に注目したのが、猪苗代高等小学校の校長をつとめていた小林栄という人物でした。彼の尽力により、野口は何とか高等小学校に入学することになります。
高等小学校に入った野口は勉学に邁進するのですが、この時期に、野口にとって大きな転機が訪れます。それは左手の手術でした。これにより、野口は医学の道を志したといいます。高等小学校を卒業した野口は、医師を目指して会津若松の医師のもとで書生として生活を送ることになります。書生生活の中、野口は語学や医学を一人で猛勉強し、めきめきと力を伸ばしてゆきました。また、このころ、高山歯科医学院の血脇守之助という人物と知り合い、その後長く公私にわたる援助を受けることもできました。
野口がついに医師となったのは書生生活を始めて三年ほどが経った二十歳のころのことです。医師になるための試験、医術開業試験の前期にわずか十九歳でパス、翌年には後期試験もパスし医師免許を取得しました。当時と現在では医師になるための制度が異なり、現在の日本では二十歳で医師になることは全く不可能です。だからと言って、当時に二十歳で医師になることが容易だったかというと、決してそんなことはありません。当時においても医師になることは難関であり、野口の学歴で全ての試験をパスするには十年はかかると言われていました。対して野口の場合は三年でのパス。やはり驚異的なスピードで医師の地位をつかみ取ったのです。
改名
医師免許を取った野口は、しばらく医師として、また医学講師としても活動していましたが、やがて細菌学を志すようになりました。野口は当時すでに世界的な名声を得ていた細菌学の権威・北里柴三郎の研究所の研究員となります。この頃、アメリカの高名な病理学者の接待役を行っており、それが野口にとって海外を意識させるきっかけになりました。その後、検疫の仕事などを経て、野口はアメリカ留学を決意。血脇の援助などによりアメリカへ旅立ちます。野口は24歳になっていました。
ここで、一つ面白いエピソードをご紹介しましょう。北里柴三郎の研究所にいた頃、野口は幼名の「清作」から「英世」へと改名しています。改名の理由は坪内逍遥の『当世書生気質』という小説の影響でした。この小説の主人公、放蕩で自堕落な医学生なのですが、名を「野々口精作」といいます。そう、「野口清作」とそっくりです。名前はそっくり、経歴もそっくり。さらに当の野口にも少々遊び癖があったようで、そこも似ている。これはいけないということで「清作」をやめ「英世」へと改名したというのです。もちろん、侍の時代とは違って改名はなかなか簡単には行かなかったようですが、それでも改名したのですから、よほど気にしていたということでしょう。ちなみに『当世書生気質』は野口が子供の頃に書かれた作品で、主人公の名が野口に似ていたのは全くの偶然ということです。
研究に死す
アメリカの大学で助手の職を得た野口は、まず蛇毒の研究を始めます。ここで持ち前の勤勉さを発揮した野口は短期間で結果を残し、デンマークへと留学する機会を得ました。デンマークから再びアメリカに戻った後はロックフェラー研究所に助手として勤めます。順調な研究生活でした。その後、「梅毒スピロヘータ」という梅毒の原因になる細菌の純粋培養に成功したと発表し、大きな評判となります。ただし、梅毒スピロヘータの純粋培養というものは当時の技術で行うことはほとんど不可能に近く、今日ではこの成果は誤りであったとされています。
続いて野口は、同じ梅毒スピロヘータを麻痺性痴呆と脊髄癆(せきずいろう)の患者から発見したと発表します。これらの病気は当時から梅毒が原因とされてはいたものの、患者からスピロヘータを発見することができていない状態でした。それを発見し、病気の原因を証明したということですから、これは大変な成果と言えます。貧しい農家に生まれ、高等小学校までしか出ていない野口が、ついに世界的な医学者の仲間入りを果たした瞬間でした。野口英世、37歳の時のことです。
その後、野口はロックフェラー研究所の正所員に昇格します。ノーベル賞の候補にもなりました。野口英世が最も充実した時だったと言えるでしょう。
名実共に大学者となった野口の次の仕事は、「黄熱病」の研究でした。しかし、野口はこの黄熱病の研究においてはさしたる成果を上げることはできませんでした。一度は病原体を確定したと発表し、またワクチンも製造したものの、効果は上がりませんでした。それもそのはず、野口が発見したと思った黄熱病の原因は、それとは異なるものだったからです。今日においても、野口の発表は誤りであったとはっきり分かっています。やがて野口は、研究していた黄熱病に自らが倒れ、そのままアフリカにおいて息を引き取りました。51歳、まさに研究に捧げた生涯でした。
努力の人
古くから偉人伝などで愛されてきた野口英世。その人生を見ていくと、あることに気付きます。彼の研究人生には「空振り」がかなり多いのです。彼の成し遂げた大きな業績は、梅毒スピロヘータの発見でしょう。文句のない世界的業績です。もちろんその他にも野口は、重要な業績をいくつも残しています。しかし、スピロヘータの純粋培養に成功したということには、今も疑問符がついたままです。黄熱病の研究では成果を上げることができず、ついに病魔に倒れました。黄熱病の原因はウイルスであり、当時の科学水準では逆立ちしても病因を特定することはできなかったのです。成果が上がらないのは当然で、野口の戦いは初めから勝ち目のないものでした。また、ここでは触れませんでしたが、その他にも病原体を発見したとしつつも実はそれが誤りだったという例が少なくありません。
それでも日本人に愛されてきた野口。その理由は業績からくる偉大さとは限らないようです。彼の真の価値とは、その「努力」にあるのではないでしょうか。貧しい生まれから猛勉強し、医師に。医師になってからも寝食を忘れて研究に没頭し、細菌の発見をめざして数えきれないほど顕微鏡をのぞいたと言います。野口本人も、努力の重要さをたびたび語っていたようです。数々の業績を残したこと以上に、「努力すること」の天才だった。それが紙幣にまでなった野口英世の本当の偉大さではないかという気がします。
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