江戸幕府の創設者、徳川家康。言うまでもなく日本史上指折りの超有名人物です。しかしながら、織田信長と豊臣秀吉を加えた戦国時代の三英雄の中では、やや人気で劣る面があるようです。特に若い頃を見てみると、「うつけ」と呼ばれながら桶狭間の大勝利をおさめた信長、百姓出身でありながら信長の部将として大出世した秀吉に比べ、家康のそれはあまり知られていないようにも思われます。そこで今回は、全てに触れると長く長くなってしまう家康の生涯の中でも、その前半生に的を絞ってご紹介しましょう。
※徳川家康は生涯に何度か改名していますが、以下では特に表記のない限り家康の名で統一します。
小勢力に生まれて
天文11(1543)年12月26日、徳川家康は三河国(現在の愛知県)の岡崎城主、松平氏の子として誕生しました。幼名を竹千代といいます。ちなみに織田信長は天文3年生まれですから家康の8歳年上、豊臣秀吉は天文6年生まれなので家康の5歳年上ということになります。
さて、当時の松平氏ですが、これは非常に小さな勢力で、大名には届かない地方の一豪族という立場です。しかも周辺の勢力図が悪く、東には当時最強と言われた大大名今川氏が控え、西にも力を伸ばしつつあった織田氏がいるという状態。この両氏に挟まれ、息も絶え絶えになりながら、やっと領地を経営しているというありさまでした。
家康をとりまく環境も厳しく、2歳の時には政治がらみで母と生別しています。当時の松平氏は今川氏と協力関係にあったのですが、家康の母の実家が織田氏と接近したため、家康の父は今川氏の手前、彼女を離縁したというのがことの顛末です。さらに家康が6歳の時、家康自身にも直接的な苦難が襲いました。領土安定のための人質になるというものです。
この人質生活についても、ちょっと複雑な話がくっついています。前述の通り、松平氏は今川氏と協力関係にあったため、家康も今川氏のもとに送られるはずでした。しかし、今川への道中において、何と織田氏にその身柄を奪われてしまうのです。それからしばらく、家康は織田氏のもとで人質生活を送りますが、やがて今川氏と織田氏の間で話がまとまり、今度は今川氏のもとへ送られ、そこで暮らすことになります。何しろ松平氏は、今川氏と織田氏に挟まれた緩衝材のような小勢力です。両氏の間では、松平氏をめぐって鞘当てが行われていたということでしょう。
ともかく、こうして家康の人質生活は始まっています。むろん人質とはいえ、別に縄で縛られて閉じ込められていたわけではありません。一種の客として扱われるのですが、それでも不自由な暮らしには違いなかったことでしょう。また、家康が人質となっている間に、実家の父が暗殺されるという事件も起こっています。松平氏は直ちに継承者を置き、家を立て直すべきだったのですが、肝心の家康は人質に取られています。松平氏とその家臣団は今川氏に顎で使われるような形になり、戦場でたびたび苛烈な役割を背負わされたといいます。
それにしても、戦国という時代、そして小勢力の悲哀をよく表した話です。家康はまさに時代に翻弄されるかのごとき幼少期を送ったのでした。
しかし、そんな家康の人質生活もやがて終わりを告げます。言うまでもなく、それはあの桶狭間の戦いによってもたらされるのです。
快進撃
桶狭間の戦い。織田信長によって行われたこの有名な奇襲戦により、今川家の当主であった義元が敗死しました。これを機に家康は今川氏のもとを脱出します。義元敗死で混乱している今川家の隙をついて、懐かしい岡崎城へと帰るのです。家康が人質となってから、12年ほどが経っていました。
城に戻った家康は、松平氏の立て直しを開始します。まず行ったのが今川氏との絶縁、さらに織田氏との同盟関係構築でした。今川義元を討った若きリーダー・織田信長につくことで西側の不安を断ち、その上で地元の三河を平定し、いずれは東の今川氏をもうかがうという目論見だったと思われます。
自由を得た若き家康の勢いは大したものでした。当時の三河はもちろん今川氏の勢力圏にありましたが、義元という大黒柱を失った今川氏の力は急速に弱まっており、家康が三河の平定に突き進んでゆくのを止めることはできませんでした。家臣の反乱や一向一揆など、いくつかの苦難はあったものの、家康は数年後には三河平定を成し遂げてしまいました。次はいよいよ今川氏の本丸とも言える駿河・遠江(現在の静岡県)への侵攻が待っていました。
さて、ここで家康の名前のことについて触れておきましょう。人質生活から三河の平定まで間に家康は何度かの改名をしています。幼名は竹千代といいましたが、今川氏のもとで元服を迎えた時、その名は元信と改まります。今川義元の元の字を貰ったものです。その後、元康に改め、信長と同盟を結んだ頃に元の字を捨てて家康と改めています。さらに家名の方も、三河を平定した時に松平から徳川へと改めました。ここでようやく、「徳川家康」という名が登場したというわけです。家康が二十代半ばの頃のことです。
今川攻略
今川攻めにあたって、家康と手を結んだ人物があります。その人物こそはあの戦国の巨人、武田信玄でした。
義元亡き後、かつての威勢が見る影もなく落ち込んだ今川氏に対し、その東〜北の方面に大きな勢力を持つ武田信玄がついに侵攻を開始します。それに協力する形で西の家康も今川氏を攻め立てました。その結果、当主は逃げのびたものの大名としての今川氏は消滅し、今川領は武田氏と徳川氏の手に落ちます。
さらにこの頃、家康が戦ったもう一つの合戦が有名な「姉川の戦い」です。織田信長による朝倉氏ならびに浅井氏との合戦ですが、これに家康も全面的に協力したのです。両軍合わせて数万の兵が入り乱れる激戦が行われ、織田・徳川連合軍が勝利をおさめています。
大惨敗を喫す
三河平定、今川攻略と順調に自らの勢力を広げていた家康でしたが、ついに最大の強敵と対峙する時がやってきます。その人物こそ、先に協力して今川氏を破った巨人・武田信玄です。
この頃の信玄はすでに強大な力を持っており、いよいよ天下を意識するところまできていました。その第一歩として、本拠地の甲斐から京都を目指して兵を動かすことに決めたのです。家康の領地は、その途上にありました。ここで家康が取った決断は「武田信玄との激突」だったのです。
徳川軍は織田の援軍を加え、遠江の三方ケ原というところで武田軍と戦いました。「三方ケ原の戦い」と言われます。信玄と対するという家康のこの決断は勇敢だったかもしれません。しかし、それは蛮勇でした。巨人・武田信玄を相手にするには、徳川氏はあまりに小さく、家康はあまりに若すぎました。家康はこの戦いでこれ以上はないというほどの惨敗を喫し、家康自身の命も危なくなるほどでした(この種の合戦で総大将の命が危なくなるほど押し込まれるのは滅多にないことです)。
三方ケ原で何とか命拾いした家康でしたが、武田軍は家康の本拠めがけて侵攻してくることになってしまいました。しかし、いよいよ徳川の命運尽きたりとなったその時になって、武田軍はぴたりと攻めの手を止めてしまいます。その原因は信玄の発病でした。そして信玄はそのままこの世を去ってしまうのです。
家康の強運というほかない出来事でした。この武田軍との戦において家康は、三方ケ原だけではなく、ほうぼうで負けに負けていたのですが、これをきっかけに攻め返し、その失点を何とか取り返したのです。
信玄亡き後の武田氏とも引き続き家康は戦いました。信玄のあとを継いだ武田勝頼もよく戦いましたが、「鉄砲対騎馬」の戦いとして有名な「長篠の戦い」で織田・徳川連合軍に大敗し、やがて武田氏は滅亡してゆきます。これにより家康は信長から遠江を与えられました。
そして、時代は大きく動いてゆきます。家康の盟友と言ってもいいほど協力しながら戦ってきた織田信長が、本能寺の変によって自刃します。この混乱の隙をついて、家康は武田氏の領地であった甲斐や信濃を奪取しました。これにより家康は旧今川領と旧武田領の多くを呑み込んだ大勢力として立つことになります。
一方、信長亡き後、その覇業を受け継いだのはご存知、羽柴(豊臣)秀吉。これから時代は豊臣政権のものになるわけですが、その中でも家康は秀吉に対抗できる大物として存在感を発揮します。天下人・豊臣秀吉と東海の英雄・徳川家康。ふたりは虚々実々の駆け引きを繰り返しつつ、時代を動かしてゆくことになるのです。
冷徹な為政者と駈ける青年領主
さて、73年の生涯のうち、40歳に差し掛かるあたりまでをご紹介してきました。秀吉の死後、手のひらを返したように天下への野望をむき出しにする、関ヶ原の戦いでは敵方の寝返りを利用して勝つ、方広寺鐘銘事件で豊臣氏にほとんど無茶苦茶なクレームをつけて攻めるきっかけにする…と家康にはどうしても謀略家のイメージがつきまといます。その狡猾さや風貌を揶揄して「狸」のあだ名までついたほどです。しかし、若い時代を見るとなかなかに痛快ではないでしょうか。苦難の人質時代、今川氏へのカウンターアタック、対信玄における大惨敗…時代のうねりの中を駆け回る青年領主の姿がそこにはあります。やがて彼が冷徹で思慮深い為政者へと成長してゆくにあたり、こんな時代が肥やしになっていたとすると、これも歴史の面白いところです。
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