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れきたん歴史人物伝
れきたん歴史人物伝は、歴史上の有名人の誕生日と主な歴史的な出来事を紹介するコーナーです。月に一回程度の割合で更新の予定です。バックナンバーはこちらから(このページの最後にもまとめてあります)


4月号 2009年4月29日更新

【今月の歴史人物】
江戸幕府とともに
川路聖謨
享和元(1801).4.25〜慶応4(1868).3.15

今月号のイラスト
川路聖謨
◆たた川路して城を明け渡すとな?
(C) イラストレーション:結木さくら


4月の主な誕生人物
01日 親鸞/鎌倉時代の僧
01日 ビスマルク/政治家
01日 浜口雄幸/政治家
02日 アンデルセン/童話作家
02日 ゾラ/小説家
03日 アーヴィング/小説家
03日 長塚節/歌人、小説家
04日 山本五十六/軍人
05日 ホッブス/哲学者、政治学者
05日 内田魯庵/評論家、小説家
05日 カラヤン/指揮者
06日 ラファエロ/画家
06日 ミル/歴史家
06日 モロー/画家
07日 法然/平安、鎌倉時代の僧
07日 ザビエル/宣教師
07日 ワーズワース/詩人
07日 鈴木梅太郎/化学者
07日 小川未明/童話作家
08日 フッサール/哲学者
08日 岸田吟香/ジャーナリスト
09日 ボードレール/詩人
10日 ペリー/軍人
10日 グロチウス/法学者、政治家
10日 香川景樹/歌人
10日 ピュリッツアー/ジャーナリスト
10日 レーニン/革命家、政治家
11日 広瀬淡窓/江戸時代の儒者
11日 パーキンソン/医師
11日 小林秀雄/評論家
12日 マイヤーホーフ/生理学者
13日 トレビシック/発明家
14日 ホイヘンス/物理学者、天文学者
14日 トインビー/歴史家
15日 レオナルド・ダ・ビンチ/画家、彫刻家、科学者
15日 内藤鳴雪/俳人
16日 チャップリン/映画俳優、監督
16日 虎関師錬/僧
16日 ライト(ウィルバー)/発明家
16日 フランス/小説家
17日 板垣退助/政治家
17日 モルガン/実業家
18日 ズッペ/作曲家
19日 フェヒナー/心理学者
20日 犬養毅/政治家
20日 ナポレオン3世/仏皇帝
20日 ヒトラー/独裁者
20日 ミロ/画家
21日 ブロンテ(シャーロット)/小説家
21日 ウェーバー/社会学者
22日 カント/哲学者
22日 オッペンハイマー/物理学者
23日 プランク/物理学者
23日 ターナー/画家
24日 カートライト/発明家
25日 川路聖謨/江戸時代の武士
26日 シェークスピア/劇作家
26日 ドラクロワ/画家
27日 モールス/発明家
27日 スペンサー/哲学者
28日 伊藤東涯/江戸時代の儒者
28日 山田検校/筝曲家
29日 ポアンカレ/数学者
29日 田口卯吉/経済学者
30日 ガウス/数学者

今回ご紹介するのは、幕末に活躍した幕臣、川路聖謨(かわじとしあきら)です。幕末といえばスターの宝庫。薩長などの雄藩から出て来た俊才達はもちろんのこと、幕臣にも有名な人物が多くあります。そういった有名人達にくらべれば、川路聖謨の知名度は決して高くないでしょう。しかし川路聖謨も、そういったスター達に負けないくらい、印象深い人生を送った人物でした。

時代が生んだ重臣
享和元(1801)年4月、豊後国(現在の大分県)日田の下級役人の子として、川路聖謨は誕生しました。三歳の頃、家族と共に江戸へと移住し、そこで教育を受けて成長します。十二歳の頃には下級の幕臣であった川路家の養子となり、その家督を相続しました。
まもなく聖謨は幕府に勤め、十七歳の頃には実力が認められて勘定所(幕府の財政のほか、民事の争いなどを担当する役所)に取り立てられました。以後もその分野で活躍し、昇進を重ねてゆきます。三十四歳のころに勘定吟味役(勘定所のナンバー2)に任じられると、佐渡奉行、普請奉行、奈良奉行(※)、大坂町奉行と重職を歴任し、五十一歳のころ、とうとう勘定奉行という地位にまで上り詰めました。勘定奉行とは幕府の中では寺社奉行、町奉行と並ぶ「三奉行」の一つとされ、正真正銘の重職でした。
さて、こうして聖謨の昇進ぶりを俯瞰すると、やはりかなりの秀才であったのだろうなあという印象を、多くの人が持つのではないでしょうか。むろん、聖謨は非常な秀才でした。それは確かなことなのですが、この昇進ぶりはそれ以上の破格さと言わねばならないでしょう。下級役人の子は下級役人、上級役人の子は上級役人となることがほとんど決まっていた江戸時代としては「有り得ない」ほどの栄達ぶりとも言えます。この栄達の裏には、当時の時代背景がありました。すなわち、江戸時代も後期に入り、幕府の屋台骨が揺らいでいたという事情です。家柄で人を選ぶだけでは、もはや幕府はもたないということに、幕府も気付きつつあったのです。ですから当時は、いい人材であれば、少々身分が低くても昇進できる時代になっていました。聖謨の昇進は、その流れに乗った面が強くあります。
ちなみにそれは中央だけではなく、各藩でも同じことでした。あれだけ多様な人材が幕末に出現したことの一因はそこにあります。そういう意味では、聖謨も幕末という時代の中だからこそ現れてきた歴史人物の一人と言えるでしょう。
さて、そうは言っても、当時を生きる聖謨は、むろん自らをそういう風に捉えてはいません。身分の低い自分を取り立ててくれた幕府に深い恩義を感じ、幕府のために一所懸命働こうと強く考えていました。川路聖謨とは、そういう生真面目で、純粋な人物であったようです。
※ただし奈良奉行については当時の老中・水野忠邦の失脚に関連した左遷とされます。

ロシアとの交渉
ところで、聖謨が勘定奉行に上り詰めた時期は、あの黒船の来航があった時期と一致します。前代未聞の事態に、幕府中が言わば大恐慌に陥っていたころです。この「国難」にあたり、聖謨は大きな役割を背負うことになります。
実は聖謨は若いころ、洋学の俊英達との親交を持っていました。渡辺華山や江川英龍、横井小楠といった面々です。彼らとの交わりの中で、聖謨はその人脈と見識を広め、海外に対する意識も高めていました。これらの背景もあり、聖謨は、この開国関連問題に対応することになるのです。
さて、開国問題の中でも聖謨が最も深く関わったのが、ロシアに対する対応です。幕末に来航した外国船と言えばペリーのアメリカ船ばかりが有名ですが、実はほぼ同時期にロシア船も来航していました。アメリカと同様に、日本の開国を求めてのことです。当時は欧米各国が日本の開国を求めていた部分があり、アメリカ船(ペリー)の来航というのはその第一弾に過ぎなかったと考えていいでしょう。
このロシア船との交渉という任務を、聖謨は命じられます。交渉にあたってのロシア側の責任者はロシア海軍の軍人・プチャーチンでした。一方、日本側の責任者は聖謨と幕府重臣の筒井政憲という人物です。ただし、この筒井という人物は言わば付き添い、見守り役で、具体的な交渉のほとんどは聖謨が担当しています。
交渉の中では開国条約の締結が主なテーマとなりました。日本にはペリーとの交渉の経験があったものの、ロシアとの条約にはアメリカとのそれとは決定的に異なる部分がありました。それは北方領土の問題です。日本とロシアは北方で国境を接しており、この境目の確定が、ロシアとの条約締結にあたっての一つの大テーマでした。アメリカとの条約のコピーではいけないのです。このことから、プチャーチンとの交渉は非常にタフで長いものになったといいます。しかし、それを聖謨は見事に乗り越えます。交渉経過や結果を述べると長くなりますので控えますが、嘉永7(1854)年末、ついに日本とロシアは「日露和親条約」を締結するに至りました。交渉中、聖謨とプチャーチンの間には激しいやりとりもあったといいます。しかしそれはあくまで交渉に必要だからそうなったということで、二人の間には相手を認めあう気持ちが芽生えていたといいます。聖謨はプチャーチンを「豪傑」と評し、プチャーチンの方も聖謨の人物を高く評価していたと伝わっています。
さて、プチャーチンとの交渉で大きな成果を上げた聖謨はその後も、落日の幕府を支えようと奔走しました。しかし、井伊直弼が大老に就任したころ、事情が変わってしまいます。井伊の反対勢力ともかかわりのあった聖謨は、安政の大獄に絡んで蟄居を命じられてしまうのです。これが、事実上聖謨のキャリアの最後となりました。伊井暗殺後に幕府の要職に短期間復帰したものの、病を患っていたことなどもあり、すぐに辞めてしまうからです。

「最後の幕臣」
聖謨が亡くなったのは慶応四年のことです。西暦で言うと1868年。江戸幕府が消滅した年であり、一般的には明治維新の年と定義されています。聖謨がこの年に亡くなったのは、偶然ではありません。
1868年の聖謨は、病を患い、体調も悪く、完全に引退している状態でした。そんな中で聖謨は、ある重大事を耳にします。それは、勝海舟と西郷隆盛によって江戸城を明け渡すことが交渉され、決定したという知らせでした。これが何かは、現代の私たちにはすぐ分かります。言うまでもなく、江戸城明け渡し(江戸城無血開城)という歴史上の事件が起こったのでした。時に、慶応四(1868)年の3月14日。
この報を聞いた聖謨の心境はいかなるものだったでしょうか。幕府の本拠たる江戸城、それが明け渡される。「城が落ちた」と思ったでしょうか。聖謨は亡くなったのはその翌日のことでした。死因は病死でも事故死でもありません。拳銃を使っての自殺でした。川路聖謨、六十七歳のことです。
「最後の幕臣」というキャッチコピーによって語られる人物といえば、戊辰戦争を最後まで戦った幕臣・榎本武揚が多いようです。「人物伝」でも「最後の幕臣」として榎本武揚を取り上げました。しかし、榎本以外にも幕府のために生き、死んだ幕臣は、有名無名を問わず、数え切れないほどいたのです。幕府のために粉骨砕身し、江戸幕府最後の日に幕府とともにその命を散らせた川路聖謨。彼もまた「最後の幕臣」だったに違いありません。

 


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