今回ご紹介するのは、幕末に活躍した幕臣、川路聖謨(かわじとしあきら)です。幕末といえばスターの宝庫。薩長などの雄藩から出て来た俊才達はもちろんのこと、幕臣にも有名な人物が多くあります。そういった有名人達にくらべれば、川路聖謨の知名度は決して高くないでしょう。しかし川路聖謨も、そういったスター達に負けないくらい、印象深い人生を送った人物でした。
時代が生んだ重臣
享和元(1801)年4月、豊後国(現在の大分県)日田の下級役人の子として、川路聖謨は誕生しました。三歳の頃、家族と共に江戸へと移住し、そこで教育を受けて成長します。十二歳の頃には下級の幕臣であった川路家の養子となり、その家督を相続しました。
まもなく聖謨は幕府に勤め、十七歳の頃には実力が認められて勘定所(幕府の財政のほか、民事の争いなどを担当する役所)に取り立てられました。以後もその分野で活躍し、昇進を重ねてゆきます。三十四歳のころに勘定吟味役(勘定所のナンバー2)に任じられると、佐渡奉行、普請奉行、奈良奉行(※)、大坂町奉行と重職を歴任し、五十一歳のころ、とうとう勘定奉行という地位にまで上り詰めました。勘定奉行とは幕府の中では寺社奉行、町奉行と並ぶ「三奉行」の一つとされ、正真正銘の重職でした。
さて、こうして聖謨の昇進ぶりを俯瞰すると、やはりかなりの秀才であったのだろうなあという印象を、多くの人が持つのではないでしょうか。むろん、聖謨は非常な秀才でした。それは確かなことなのですが、この昇進ぶりはそれ以上の破格さと言わねばならないでしょう。下級役人の子は下級役人、上級役人の子は上級役人となることがほとんど決まっていた江戸時代としては「有り得ない」ほどの栄達ぶりとも言えます。この栄達の裏には、当時の時代背景がありました。すなわち、江戸時代も後期に入り、幕府の屋台骨が揺らいでいたという事情です。家柄で人を選ぶだけでは、もはや幕府はもたないということに、幕府も気付きつつあったのです。ですから当時は、いい人材であれば、少々身分が低くても昇進できる時代になっていました。聖謨の昇進は、その流れに乗った面が強くあります。
ちなみにそれは中央だけではなく、各藩でも同じことでした。あれだけ多様な人材が幕末に出現したことの一因はそこにあります。そういう意味では、聖謨も幕末という時代の中だからこそ現れてきた歴史人物の一人と言えるでしょう。
さて、そうは言っても、当時を生きる聖謨は、むろん自らをそういう風に捉えてはいません。身分の低い自分を取り立ててくれた幕府に深い恩義を感じ、幕府のために一所懸命働こうと強く考えていました。川路聖謨とは、そういう生真面目で、純粋な人物であったようです。
※ただし奈良奉行については当時の老中・水野忠邦の失脚に関連した左遷とされます。
ロシアとの交渉
ところで、聖謨が勘定奉行に上り詰めた時期は、あの黒船の来航があった時期と一致します。前代未聞の事態に、幕府中が言わば大恐慌に陥っていたころです。この「国難」にあたり、聖謨は大きな役割を背負うことになります。
実は聖謨は若いころ、洋学の俊英達との親交を持っていました。渡辺華山や江川英龍、横井小楠といった面々です。彼らとの交わりの中で、聖謨はその人脈と見識を広め、海外に対する意識も高めていました。これらの背景もあり、聖謨は、この開国関連問題に対応することになるのです。
さて、開国問題の中でも聖謨が最も深く関わったのが、ロシアに対する対応です。幕末に来航した外国船と言えばペリーのアメリカ船ばかりが有名ですが、実はほぼ同時期にロシア船も来航していました。アメリカと同様に、日本の開国を求めてのことです。当時は欧米各国が日本の開国を求めていた部分があり、アメリカ船(ペリー)の来航というのはその第一弾に過ぎなかったと考えていいでしょう。
このロシア船との交渉という任務を、聖謨は命じられます。交渉にあたってのロシア側の責任者はロシア海軍の軍人・プチャーチンでした。一方、日本側の責任者は聖謨と幕府重臣の筒井政憲という人物です。ただし、この筒井という人物は言わば付き添い、見守り役で、具体的な交渉のほとんどは聖謨が担当しています。
交渉の中では開国条約の締結が主なテーマとなりました。日本にはペリーとの交渉の経験があったものの、ロシアとの条約にはアメリカとのそれとは決定的に異なる部分がありました。それは北方領土の問題です。日本とロシアは北方で国境を接しており、この境目の確定が、ロシアとの条約締結にあたっての一つの大テーマでした。アメリカとの条約のコピーではいけないのです。このことから、プチャーチンとの交渉は非常にタフで長いものになったといいます。しかし、それを聖謨は見事に乗り越えます。交渉経過や結果を述べると長くなりますので控えますが、嘉永7(1854)年末、ついに日本とロシアは「日露和親条約」を締結するに至りました。交渉中、聖謨とプチャーチンの間には激しいやりとりもあったといいます。しかしそれはあくまで交渉に必要だからそうなったということで、二人の間には相手を認めあう気持ちが芽生えていたといいます。聖謨はプチャーチンを「豪傑」と評し、プチャーチンの方も聖謨の人物を高く評価していたと伝わっています。
さて、プチャーチンとの交渉で大きな成果を上げた聖謨はその後も、落日の幕府を支えようと奔走しました。しかし、井伊直弼が大老に就任したころ、事情が変わってしまいます。井伊の反対勢力ともかかわりのあった聖謨は、安政の大獄に絡んで蟄居を命じられてしまうのです。これが、事実上聖謨のキャリアの最後となりました。伊井暗殺後に幕府の要職に短期間復帰したものの、病を患っていたことなどもあり、すぐに辞めてしまうからです。
「最後の幕臣」
聖謨が亡くなったのは慶応四年のことです。西暦で言うと1868年。江戸幕府が消滅した年であり、一般的には明治維新の年と定義されています。聖謨がこの年に亡くなったのは、偶然ではありません。
1868年の聖謨は、病を患い、体調も悪く、完全に引退している状態でした。そんな中で聖謨は、ある重大事を耳にします。それは、勝海舟と西郷隆盛によって江戸城を明け渡すことが交渉され、決定したという知らせでした。これが何かは、現代の私たちにはすぐ分かります。言うまでもなく、江戸城明け渡し(江戸城無血開城)という歴史上の事件が起こったのでした。時に、慶応四(1868)年の3月14日。
この報を聞いた聖謨の心境はいかなるものだったでしょうか。幕府の本拠たる江戸城、それが明け渡される。「城が落ちた」と思ったでしょうか。聖謨は亡くなったのはその翌日のことでした。死因は病死でも事故死でもありません。拳銃を使っての自殺でした。川路聖謨、六十七歳のことです。
「最後の幕臣」というキャッチコピーによって語られる人物といえば、戊辰戦争を最後まで戦った幕臣・榎本武揚が多いようです。「人物伝」でも「最後の幕臣」として榎本武揚を取り上げました。しかし、榎本以外にも幕府のために生き、死んだ幕臣は、有名無名を問わず、数え切れないほどいたのです。幕府のために粉骨砕身し、江戸幕府最後の日に幕府とともにその命を散らせた川路聖謨。彼もまた「最後の幕臣」だったに違いありません。
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