光と影を自在に操り、ことに肖像画の分野では超一流の業績を残したと言われる画家、レンブラント。深く静かで、神秘性さえ感じさせる画風とは対照的に、その人生は非常に起伏に富んだものだったといいます。今回はそんな大画家、レンブラントの生涯をご紹介しましょう。
画家レンブラント誕生
1606年7月15日、オランダのライデンでレンブラントは生まれました。ちなみにこの頃の日本では、1600年に関ヶ原の戦いが行われ、1603年に江戸幕府が開かれています。
レンブラントの家は粉屋で、さほど貧しくはなかったといいます。幼い頃のことはそれほどわかっていませんが、地元の学校に通って学問を行っていました。
やはてレンブラントは絵の世界を志します。彼が初めて本格的な絵の世界に関わったのは15歳の年です。地元の画家の家に弟子入りし、基礎的な技術などを学びました。その3年後には大都市・アムステルダムの画家のもとで修行し、やがてライデンに帰って自分の工房を持ちます。この時が画家・レンブラントの誕生というわけです。
大成功をおさめる
25歳になった頃、レンブラントはふたたびアムステルダムを活動の拠点と定めます。その直後にレンブラントは一つのヒットを飛ばしました。「トゥルプ博士の解剖学講義」という作品がそれです。この作品は、当時一般的だった集団肖像画というジャンルに含まれます。集団肖像画とは、実在の人物たちを幾人か画面に登場させる、集合写真のような意味を持った肖像画です。大抵は組織からの依頼によって描かれ、「トゥルプ博士の解剖学講義」の場合、依頼者は医師の組合でした。
さて、この作品には斬新な点が一つありました。それは、絵に込められた物語性です。それまでの集団肖像画は、ただ人物たちを羅列するかのような作品が多数でした。しかし、「トゥルプ博士の解剖学講義」は違っていました。画面には解剖しながら医学講義を行う博士と、それに熱心に耳を傾ける男たちが登場します。そこに描かれているのは、今まさに解剖学講義が行われているドラマチックな一場面でした。
この趣向は大変な評判を呼び、レンブラントのもとには多数の依頼が舞い込むようになります。彼は一躍、人気画家の仲間入りを果たしたわけです。
これを機に、レンブラントの収入は上がり、工房も繁栄しました。また、裕福な名家の娘と結婚を実現したのもこの頃のことです。まさに順風満帆、この時期のレンブラントは得意の絶頂にあったに違いありません。
転落する
ところが、絶頂期はそう長くは続きませんでした。実はレンブラントという人物には浪費癖があったようで、この頃から(絵画の資料という意味も込めて)さまざまな品物を買い込むようになります。また、大きな邸宅も購入しました。これらが身の丈に合った買い物であればよかったのですが、残念ながらそうではありませんでした。これらの浪費は、レンブラントの生活をだんだんと圧迫していきます。
さらに、妻の死という不幸もレンブラントを襲います。夫婦の間には幼い息子が一人あり、それが唯一の救いであったかもしれませんが、やはりレンブラントにとっては衝撃だったでしょう。また、この頃、代表作の一つ「夜警」が描かれていますが、これが集団肖像画としての評判はもう一つで、これもレンブラントから元気を奪ったかもしれません(※)。
その後、レンブラントは残された息子のために家政婦を雇いますが、このこともトラブルのもととなりました。この家政婦はレンブラント家でしばらく働きますが、やがてレンブラントは新しい家政婦を雇い、彼女と事実上の結婚状態を結びます。これで怒ったのが前の家政婦でした。レンブラントは婚約不履行で訴えられ、そのために彼は、ただでさえ浪費によって目減りしていた財産を、さらに持っていかれる羽目に陥ったのです。
まさに踏んだり蹴ったりのレンブラント。得意の絶頂から見事に転げ落ち、彼はとうとう破産し、家も、財産も失いました。レンブラントが50歳のころのことです。
※ただし、絵画作品としての「夜警」の評価は当時としても高いものだったと言われます。「夜警」の失敗がレンブラントを没落させたとも言われていますが、この説は現在はあまり支持されていません。レンブラントは「夜警」の後も質の高い作品を生み出し続けますし、依頼による作品制作も行っています。彼が破産にまで追い込まれたのは、仕事以外のことが原因の多くを占めていました。仕事に原因を求めるとするならば、それは「夜警」一枚の失敗などということではなく、もはやレンブラントの画風自体が時代の流行に合わなくなりつつあったということが大きいようです。
描き続ける
しかしながら、破産後もレンブラントは創作活動を諦めることはありませんでした。レンブラントは家族を連れ、アムステルダム中央部からほど近い地区へ引っ越しします。彼はそこで創作活動を続けるのです。
彼の絵画は新たな境地に達していました。「トゥルプ博士の解剖学講義」を書いた若い頃。「夜警」を描いた充実期。栄光と没落。これらを経て、一つの完成された円熟期を迎えつつあったと言ってよいでしょう。この時期のレンブラントはいくつもの傑作を生み出してゆきます。
ところが、晩年のレンブラントにはまだ苦難が待っていました。それは、二人目の妻との死別でした。そして、その直後、あろうことか彼の息子までが急死してしまいます。レンブラントが57歳のころのことです。
レンブラントがどれほど悲嘆にくれたことでしょう。しかし彼は、その後も創作活動を続けるのです。その筆致は老いていよいよ冴え渡りました。レンブラントの生涯の中でも指折りの大傑作が、彼の晩年に生み出されています。
そんなレンブラントがついに亡くなったのは1669年のことです。63歳でした。
自画像の中に
レンブラントの特徴としてよく挙げられるのが自画像を多く残した画家という点でしょう。
時代毎の自画像が残されていますが、中でも晩年のレンブラントを描いた自画像は、深い精神性を感じさせる大傑作と評価されます。栄光、没落、いくたびもの家族との死別といったさまざまな経験を重ねて来たからこそ、その自画像が傑作となり得たのでしょう。また、それらの経験や自らの精神を、自画像の中に表現する力こそが、レンブラントの本領であったに違いありません。
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