幕末の志士・高杉晋作。幕末史を彩る人々の中でもスターの部類に入る有名人物でしょう。激しく燃え盛るように生き、若くして亡くなったその生涯は、幕末人の一種の典型のようでもあります。今回はこの高杉晋作の生涯を取り上げます。
※高杉晋作は変名や別名、号などを数多く持っていますが、ここでは有名な「高杉晋作」の名に統一して表記します。
松下村塾で学ぶ
天保10(1839)年8月20日、高杉晋作は長州藩の武士の子として誕生しました。少年時代は藩校に通って学問をしていましたが、やがて吉田松陰の松下村塾で学ぶようになります。この松下村塾での日々は、晋作の知識や思考力を大いに高めました。そこに集った門下生たちも晋作に強い刺激を与えたようです。
その後、晋作は政情の視察と学問のため江戸におもむき、昌平坂学問所(幕府の公式の学問所)で学びました。時折しもペリー来航から数年、日米修好通商条約も結ばれた大変に騒々しい時期で、そんな時代の江戸の空気を、晋作は体感したということになります。
ちなみにこの時期、師の吉田松陰が安政の大獄によって捕まり、江戸に送られていました。晋作も師と対面したようですが、やがて松蔭は処刑されてこの世を去ります。この時、晋作は大変悲しみ、このことが猛烈な倒幕思想を持つ動機の一つにもなったといいます。
上海見聞と尊王攘夷
その後、晋作は江戸から長州へと帰り、海軍関連の知識を主に学びました。軍艦での訓練航海なども行っています。また、幕府の随行員として中国の上海に渡るという経験をしたのもこの時期です。上海では現地の欧米人と交流したり、当時起こっていた「太平天国の乱」について見聞きしたりしました。この旅行で晋作は、中国の情勢はもちろんのこと、世界情勢や欧米の技術力などを強く認識して帰国しました。また、日本の力、特に海軍力を高める必要性も感じたといいます。
上海から帰国した晋作は、穏健だった藩論を尊王攘夷へと転換させるための活動をはじめました。協力者には久坂玄瑞や桂小五郎(木戸孝允)らがありました。この頃の晋作は、品川に建設中の英国公使館を焼き打ちするなど、極めて過激な行動も起こしています。
下関戦争
文久3(1863)年、晋作24歳の年、長州藩に大事件が起こります。いや、大事件を「起こした」と言った方が正確でしょう。それは、長州藩による外国船砲撃事件でした。
ことの次第はこうです。当時、開国条約はとっくに結ばれていましたが、未だ国内の政情は混沌としており、開国派や攘夷派が入り乱れて争っていました。幕府すら政治を上手くコントロールできないでいる中、その権威を背景にして存在感を高めていたのが朝廷です。この時、朝廷は攘夷を強く希望し、幕府に対してその実行を迫っていました。しかし、幕府はそれを実行しませんでした。そこで、藩論が完全に攘夷派へと傾いていた長州藩が、下関において米船などを砲撃したのです。
むろん、当時の欧米の力に長州藩が敵うはずもなく、長州藩は報復攻撃によって手痛い損害を受ける羽目に陥りました。しかしながら、やられっぱなしで終わったわけでもありません。この事件の後も長州藩は下関海峡の防備を固めています。その結果、海峡を外国船が通過できなくなってしまいました。
ちなみに、あの有名な奇兵隊は、この時期に晋作が設立を提言したものです。これは、本職の戦闘員である武士だけではなく、農民や町人など、さまざまな層からその構成員を集めるという、当時としては画期的な部隊でした。晋作はこの奇兵隊の総督になりましたが、他部隊との小競り合いが起こったため、その責任を取らされて短期で辞職しました。ただし、奇兵隊自体は後まで残り、以後、幕末の動乱に伴って起こるさまざまな戦闘に参加しています。
話を戻して1年後の文久4(1864)年。前年の外国船砲撃のツケとも言える大事件が、再び長州藩を襲います。先に述べた通り、前年より長州藩は下関海峡を封鎖していました。これに怒った列強が、いよいよ本格的に実力行使に出てきたのです。すなわち、四国(英仏米蘭)艦隊による下関砲撃でした。
長州藩は列国に抗戦しますが、前年と同じこと、やはり敵うはずもなく、あっさりと敗北しました。なお、この四国艦隊による下関砲撃と、前年の外国船砲撃事件を、まとめて下関戦争とも呼びます。
戦後交渉でのホームラン
下関戦争に敗北した長州藩には、その戦後処理という難題が待っていました。戦後処理、すなわち講和条約の調印ということです。この交渉役に引っ張り出されたのが晋作でした。この時晋作は、前年に起きた「八月十八日の政変」という事件にまつわるトラブルにより処罰されていたのですが、この交渉に出るために赦され、話し合いの場に出ました。
交渉において晋作は、非常に堂々とした態度で振る舞い、相手の外国人を驚かせたといいます。交渉において晋作は、海峡通過の自由や外国船に対する燃料・食糧の供給といった項目をすんなりと受け入れました。賠償金を払うという項目も受け入れたものの、これは幕府による攘夷の命令を受けて長州藩が行動したまでのことであるから、幕府に請求して欲しいとして相手を納得させるなど、したたかな一面も見せています。
さて、この交渉で山場となったのは、下関からほど近い小島「彦島」を租借したいという相手側の要求でした。どうも長州側はこの問題をあまり重要視していなかったようなのですが、晋作だけは違いました。土地の租借を繰り返され、国土の多くが植民地同然になってしまう危険性を見抜いていました。そのいい例が当時の中国で、晋作はその状態を中国に行って見聞していました。晋作は彦島の件についてだけは決して受け入れず、結局相手側もその租借については要求を取り下げました。
これを受け入れていたら、日本の運命は少し変わっていたかも知れないと言われます。高杉晋作の業績はいくつもありますが、もしかしたら、この一件が高杉晋作の生涯で最も大きいホームランだったかもしれません。
若くして死す
以後も幕末の動乱期は続きます。四国艦隊による砲撃と同じ時期、長州藩が薩摩藩と激突した禁門の変が起き、それが原因となって幕府による第一次長州征伐が起きました。この時、幕府に従う姿勢を取った長州藩重臣らに反対し、晋作は仲間とともに決起、藩の実権を掌握することに成功します。やがて長州は坂本龍馬の仲介により薩摩と同盟し、倒幕への道を突き進んでゆくことになります。
しかし、晋作はその状況下で肺結核に倒れ、慶応3(1867)年4月14日に亡くなりました。大政奉還が行われる半年前のことです。
高杉晋作が亡くなったのは、27歳という若さでした。幕末という動乱期、若くして亡くなった才能は数多くあり、晋作もその一人ということになるのでしょう。それにしても、高杉晋作という人は、若い身でさまざまな場面に立ち会い、さまざまに動きまくったものです。こういう人が生き延びていたら、明治の世で何を成したか。是非見てみたかったという気がします。
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