NHKで大作ドラマが放映されていることなどから、日露戦争やそれに関わった人々に対する関心が高まっているようです。そこで今回は、日露戦争において海軍の実動部隊を率いた東郷平八郎と、日露戦争の海の戦いについてご紹介します。
幕末の動乱の中で
東郷平八郎が生まれたのは弘化4(1847)年の12月22日。黒船来航のおよそ5年前です。生家は薩摩藩の武士の家でした。有名な薩摩藩の幕末志士たちとも同郷ということになります。
東郷が16歳の時、薩摩藩で戦が起こりました。ただの戦ではありません。対外国の戦争でした。薩摩藩士による外国人殺傷事件「生麦事件」を発端とする「薩英戦争」がそれです。東郷はこの戦に参加しました。これが東郷の初めての戦であり、後世の関連書籍などではもっぱら「初陣」と表現されています。その後も東郷は幕末・維新の戦乱の中に身を投じ、戊辰戦争においては旧幕府軍(榎本軍)との海戦に参加しました。これらの経験が海軍軍人としての東郷平八郎の原点だったと言えるでしょう。
イギリス船砲撃事件
明治に入ると東郷は海軍士官の身分でイギリスに留学します。東郷はこの留学中に近代的な海軍知識や航海術、国際法知識などを吸収しました。なお、この留学中に日本では西南戦争が勃発しています。薩摩の英雄・西郷隆盛を総大将とする不平士族たちの反乱でしたが、薩摩出身の東郷にとってもこの大きな内戦は無縁ではなく、西郷に従って戦った兄を亡くしています。
帰国後、東郷は軍人としての道を順調に歩みました。本人の資質もさることながら、薩摩出身である点も有利にはたらいたことでしょう。数々の艦の艦長をつとめ、階級も上がってゆき、40代半ばの頃には大佐で巡洋艦の艦長になっていました。決して低くない地位です。そして、ちょうどこの時、日本史はある戦争の時代にさしかかります。その戦争とは、日本と清国との戦争「日清戦争」でした。
もちろん東郷も海軍の軍人として日清戦争を戦うのですが、戦争中、東郷の名を広めた有名な事件がありますので紹介しましょう。それは「イギリス船砲撃事件」とか「高陞号事件」などと呼ばれる事件です。
戦争中、前述の通り巡洋艦の艦長として戦っていた東郷は、ある時、海上で「高陞(こうしょう)」というイギリス船と遭遇します。これがただの船であれば何もなかったのですが、「高陞」は清国兵や武器をたくさん乗せていました。事実上の輸送船です。東郷は信号を出した上で「高陞」を停船させ、船を捕獲しようとしました。しかし「高陞」側は拒否します。「高陞」はその後の交渉にも従わなかったため、東郷は警告の後「高陞」を撃沈しました。
はじめ、この事件は単に日本の軍艦がイギリス船を撃沈したものととらえられ、ことにイギリスを激怒させました。しかし時間の経過とともに事件の詳細が明らかとなり、一連の東郷の処置も国際法上、全くの合法であったと理解されました。イギリスの怒りはおさまり、国際問題に発展することもありませんでした。この事件によって、軍艦の艦長としての東郷の冷静さと、国際法に対する知識の深さが知られるようになりました。
日清戦争後、東郷は将官(※)に進み、海軍大学校長や佐世保鎮守府司令長官、常備艦隊司令長官といった職をつとめます。
※国や時代で違いはあるが、基本的には少将から大将までの階級をまとめてこう言う。軍隊のピラミッドの中で最も上位のグループ。
「東郷は運が強い」
日露戦争の直前、東郷は舞鶴鎮守府司令長官をつとめていたところを、連合艦隊司令長官に任命されます。連合艦隊というのは、戦争を行うにあたり、海軍戦力の中心になる艦隊のこと。つまり「連合艦隊司令長官=海の現場のトップ」と考えれば、そう遠くない理解でしょう。この人事には、明治天皇からもなぜ東郷なのかという質問があり、当時の海軍大臣だった山本権兵衛は「東郷は運が強い」という理由を述べたと伝えられます。
当時、政府や軍の要人で、ロシアとの戦争について楽観している人はなかったと言ってよいでしょう。むしろ、悲観というか、悲愴というか、そういう気分で戦争にさしかかっていました。それくらい当時の日本とロシアの国力は差があり、勝算もせいぜいゼロではないという程度しかありませんでした。もちろん、海の戦いでも大苦戦が予想されました。
国を巻き込む戦争に際して「運が強いから」という理由だけで人を選ぶというのはあり得ないように思えます。実際のところ、東郷の選抜は、実戦経験が豊富なところや冷静な性格によるところが大きかったに違いありません。しかしこのやり取りは、指揮官の「運」の部分すら気にせざるを得ないという切羽詰まった状況や、東郷が当時の海軍中枢でどう思われていたかが見えてくる、とても象徴的な一場面ではないでしょうか。
日露戦争・海の戦い
日露戦争が起こるまでの歴史的背景、具体的な戦局推移や戦闘の中身については、大変複雑で長大になるため、ここでは紹介しません。ただ東郷の指揮した海の戦闘について、ごく大づかみに触れておきましょう。
日露戦争における海の戦闘は、ほぼ日本海で行われました。日本と戦うロシアの海軍戦力は東側(太平洋側)の艦隊と西側の艦隊(バルト海の艦隊、いわゆるバルチック艦隊)のほぼ二つに分割されており、そのそれぞれが日本の全海軍戦力と同等程度の力を持っていました。このためロシアは、東側の艦隊を使って日本から朝鮮半島・中国大陸への物資輸送を妨害しつつ、西側の艦隊を東側に移動させ、両者を合体させて日本の艦隊を叩き潰そうと考えました。東西の艦隊が合体すると、単純に考えて戦力は日本の二倍。こうなると日本の勝ち目はありません。ですから日本の目標は、まず東側の艦隊を壊滅させること。その後、到来した西の艦隊を叩くということになりました。この作戦の指揮を、東郷が行うわけです。
と言っても、この作戦が困難なことは素人目にも分かります。そもそも日本と同程度の規模を持つ東西のロシア艦隊に二連勝しなければならないのが無茶です。さらに、東の艦隊は西の艦隊の到着を待つ身です。日本と戦う必要はなく、広い日本海を逃げ回っていればいいのでした。そういう艦隊を捕まえて壊滅させなければいけないのです。半分でも、三分の一でも残してしまうと、それが西の艦隊と合体してしまい、日本は窮地に追い込まれます。
これらの困難に、東郷と日本艦隊はどう立ち向かったか。経過を詳細に述べるとこれまた膨大な量になりますので、結果だけ簡潔に紹介します。
東郷は東の艦隊をとらえて撃滅することに成功し、その後訪れた西の艦隊との決戦にも勝利した。これが結果です。この西の艦隊との決戦が、有名な日本海海戦ということになります。特に日本海海戦の勝利の仕方は尋常ではなく、文字通りの完勝、ほぼ全ての艦船を戦闘不能にしました。世界の海戦の歴史の中でこれだけの差がついた勝利はほとんどありません。これは東郷の優れた指揮に加え、政治上、軍事上、心理上のさまざまな要因が重なって起こったこととされます。指揮や戦術だけでは説明しきれないほどの勝ち方ということです。
この結果は、当時、日本のみならず世界をも驚嘆させたといいます。このため、海外でも東郷は非常に有名になりました。史上稀な完勝をおさめた指揮官として、各国に東郷の名は知られることになるのです。現代においては、むしろ海外の人の方が東郷の名をよく知っているかもしれません。
ちなみに、東郷の下で具体的な戦術を立てたのが「参謀」たちです。その参謀の中の一人が、かの秋山真之でした。少々変わったところのある人物だったものの、戦術にかけては天才的で、上記の勝利も秋山の貢献が大きかったと伝えられます。
その後の東郷
まもなく、日本の優勢のうちに日露戦争は終結しました。ただ、日本の勝利だったかというと、これは今も説が分かれます。また、この戦争が以後の日本に与えた影響についても、さまざまな説が出ています。しかし、それらについてはここでは触れず、その後の東郷の人生だけ、簡単に見てみましょう。
日露戦争後の東郷は海軍軍令部長や東宮御学問所総裁をつとめ、元帥にもなりました。その権威は絶大で、海軍で何か対立が起こると、神輿のように担がれてしまうことはあったといいます。あまりいい傾向とは言えませんが、実際に東郷が軍事や政治の前面に出てきた例は多くなく、かなり自制していたようです。
東郷がこの世を去ったのは1934年5月30日のことでした。その死は世界各国で報じられ、葬儀は国葬として行われました。
最後に、指揮官としての東郷について紹介しておきましょう。日露戦争の戦いの間、東郷はあくまで冷静で、平然としていたと伝わります。東の艦隊がなかなか捕まらず時間ばかりが経ってしまっていたときも、日本側の主力軍艦が機雷に触れるなどの理由で次々と沈んでしまったときも、取り乱さずに指揮をとりました。これにより部下たちも動揺することなく自分の仕事に邁進できたといいます。西の艦隊を待つ間、想像を絶するような猛訓練を行って砲戦の技術をアップさせたという周到さもありました。東郷の指揮官ぶりとは、そういうものでした。
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