ガウス、といえば「どこかで聞いたことがある」と思う方はきっと多いでしょう。それは、ガウスの名を冠した重要な法則が科学の世界に数多く残っていて、言葉としての「ガウス」が今なお生きているということが大きいでしょう。その一方で、歴史人物としてのガウスを詳しく知っている人は案外少ないのではないでしょうか。しかし、ガウスという人は人類史上でも稀な数学の天才であり、「数学王」の異名まで持っているのです。
今回はガウスの生涯を見てみることにしましょう。
「1から100まで足す」
ガウスは1777年、ドイツのブラウンシュバイクというところで誕生しました。両親はそれほど裕福ではない一般庶民であったようです。
歴史上に残る天才の多くがそうだったように、ガウスも幼い頃から高い能力を発揮しました。それも、神がかっていると言っていいほどの驚異的な力です。後に彼自身「言葉を覚えるより早く計算を覚えた」と語っています。これが正真正銘の真実かどうかは分かりませんが、それに近いほど賢かったのは間違いないようです。
ガウスの少年時代における最も有名なエピソードをご紹介しましょう。ガウスが10歳にもなっていないある時のことです。学校で先生に「1から100までを全て足し算しなさい」という課題を出されました。これはガウスがどんな問題を出してもあっという間に解いてしまうので、少し時間のかかる問題を与えようという意図だったとされますが、これもガウスはあっと言う間に解いてしまったのです。
もちろん、ガウスはただ1から100まで足していったわけではありません。もっと効率のよい方法を思いつき、それで答えを出しました。以下でご紹介しましょう。
まず、1から100までの数字が二組あると考えます。そして、そのうちの一組を1から100へ、もう一組を100から1という順番にし、それらを縦に並べます。
[1、2、3、4……97、98、99、100]
[100、99、98、97……4、3、2、1]
これで、対応する上下の数字を足してみるとどうなるでしょうか。
[101、101,101,101……101、101,101,101]
と、「101」が100個並ぶはずです。これらを全て足してやると「10100」になります。この「10100」とは二組の1から100までを全て足した数字ですから、これを2で割った「5050」が、1から100までを足した答え、となります。
文字だけで表すと少しややこしいですが、お分かりいただけたでしょうか。数学的には「等差数列の和を求めた」ということになるそうです。
「正十七角形」
ガウスはその後も順調に成長しました。その数学の力はますます冴え、地元の公であるブラウンシュバイク公の目に留まり、援助を受けるほどになりました。ガウスに学者ではない普通の商売について欲しいと考えていた父親も、息子が巨大な才能を持っていることを徐々に理解し、ついに学者になることを認めました。
しかしながら、ガウス自身はかなり謙虚でした。十代の間、数学の道を進むことに確信が持てず、もう一つ興味のあった言語学者になろうかと迷っていたというのですから。
ガウスが数学者になると決めたのは19歳のときでした。きっかけは正十七角形をコンパスと定規で作図する方法を発見したこと。当時はコンパスと定規だけで正確に作図できる正多角形といえば正三角形と正五角形だけだと考えられており、正十七角形の発見は、数学的にはとんでもない大事件でした。いや、事件という言葉ではおさまらないのかも知れません。数学史に残るほどの(実際に残っていますが)業績でした。ちなみに、同様にコンパス・定規での作図が可能な正多角形は今日でさえあと2つしか知られていません。それは正257角形と、正65537角形だそうです。
ともかく、これによってガウスは自信を持ち、数学者になろうと決めたのです。いかにも数学者らしいエピソードですが、ここまでの発見をしなければ自信が持てないというのは、大天才ならではと言うか、ちょっとスケールの違う感覚としか言いようがありません。なお、この発見については、1796年3月30日になされたという日付までが伝わっています。
多くの業績
その後、ガウスはめでたく数学者となり、数々の業績を残します。1801年に出版された『整数論研究』はガウス最大の業績の一つですが、史上の天才がなした著作の例に漏れず、当時理解できた者はほとんどいなかったといいます。また、数学分野における天才的能力は他の分野にも応用され、それぞれに多大な貢献をなしています。例えば、その後半生においては天文学の研究を重点的に行って多くの業績を残しましたし、ほかにも力学や光学、電磁気学などの多彩な分野に貢献しました。磁束密度の単位が彼にちなんで「ガウス」と名付けられていることはあまりにも有名です。
ガウスという人物
ガウスの個人的生活についても触れておきましょう。
ガウスは「○○の創始者」「○○の発見者」という肩書きを多数持っているのですが、それに比べて、彼が生前に発表した論文や書物はそこまで多くありません。死後に出版されたものも多くあります。ガウスがいかに物凄い人だったか、どれだけのことを発見していたか、その全貌が分かったのは、20世紀に入ってからだとされます。ガウスという人は、名声を求めない、どちらかというと静かに研究に没頭していたいタイプの人だったのでしょう。
ガウスは生涯に二度結婚しています。はじめの妻と結婚したのは30歳になる前。ガウスは彼女を非常に愛したものの、妻は若くして亡くなってしまいます。その後再婚しましたが、この二人目の妻との仲はあまりしっくりいかなかったようです。子どもは二人の妻との間に合計6人ありました。
今日では「数学王」とまで言われるガウスですが、若き日に一度は志した言語学、また文学についても愛好していました。ヨーロッパ各国語の文章や詩を読み、宗教や哲学についても造詣が深かったといいます。
そんなガウスが亡くなったのは1855年の2月23日のこと。78歳という長寿でした。
|