完全新作「今日の歴史 歴史出来事カレンダー 2011年版」が発売になりました。今回はこのカレンダーから、寛仁2年10月16日の「望月の歌」をとりあげます。
藤原道長が詠んだ「望月の歌」と、その背景を見てみましょう。
摂関政治とは? その一・助走期間
「望月の歌」は、端的に言うと、藤原道長が自らの栄華を喜んで詠んだ歌です。そして、その栄華を支えたのは「摂関政治」でした。
摂関政治とは平安時代の中期を支えた政治システムで、藤原氏の一族が「摂政」や「関白」になって、天皇の代理や補佐として政治を行ったものです。
貞観8(866)年、藤原良房が摂政になりました。これが、皇族以外で初めての摂政です。その後、良房の子(正確には養子)である藤原基経も、皇族以外で初の関白にもなっています。これらが摂関政治のはじまりと言える出来事です。
良房の摂政就任はただ突然抜擢されたものではなく、環境的な要因が作用しています。良房には娘(明子)があり、天皇の后でした。明子は皇子を産んだのですが、天皇が病死し、その皇子が天皇に即位します(清和天皇)。しかしその時、天皇はまだまだ幼年でした。そこで、朝廷の実力者であり、清和天皇のおじいさん(外祖父)にあたる良房が、天皇のサポート役につくという流れになったのです。
このような、「摂関への就任」と「天皇の血縁」というセットは、摂関政治の重要な「形」として受け継がれてゆくことになります。
とは言え、ここで摂関政治が完成したというわけではありません。摂政、関白というのは律令の定めにない職で、そもそも不安定な面がありました。天皇が幼い時に代理をつとめるのが摂政、天皇が成人してから代理をつとめるのが関白という基準はあるのですが、それももう少し後に確立することで、この頃はあやふやです。また、基経以後、摂関の職はしばらく置かれていません。そういう不安定さが消え、摂関政治が一つの形としてかっちりと固まるには、まだ時間がかかります。良房、基経の時代は、摂関政治への準備期間、助走期間だったと言うのがよいかも知れません。
摂関政治とは? その二・本格始動
良房や基経の時代、藤原氏の力は強力でしたが、後世のように唯一無二というほどでもありませんでした。藤原氏以外にも有力な氏族はあり、9世紀半ばから10世紀半ばまでの朝廷では壮絶な権力闘争が行われました。有名な「菅原道真の左遷」などは、この期間に起こった出来事です。
そして、基経から数代後の10世紀後半、ついに藤原氏は権力闘争の最終勝者となりました。他氏族は政治の場から事実上排除されました。時々の例外を除いて摂関が常に置かれ、藤原氏の有力者がそれを受け継ぐという形もほぼ定まりました。こうして、摂関政治時代が本格的に始まります。
こののち、権力闘争といえば藤原氏内部で起こるものがほとんどになります。そのような闘争の一つが、藤原兼通と兼家という兄弟の争いでした。兼通は弟の兼家と激しく対立し、自らが関白位に就くと兼家を冷遇するなどしました。しかし、対立のさなか、兼通がついに病死します。これで潮目が変わり、やがて兼家は摂政の地位を奪取しました。兼家は自分の息子らをどんどん昇進させるなどの露骨な手法で、一族を大いに栄えさせます。その息子たちの中の一人が、かの藤原道長でした。
藤原道長、歌を詠む
道長は藤原兼家の四番目の男子として誕生しました。兼家は兄の兼通と対立していたものの、やがて運命が開け、摂政になって息子たちをどんどん昇進させたのは先述の通りです。むろん道長も例外ではなく、極端なスピードで昇進してゆきます。しかしながら、所詮は四男。藤原氏を率いる立場になるとは、この時点では考えられないことでした。
ところが、ある時事情が変わります。道長の兄たちが、病や疫病で次々とこの世を去り、摂関の地位が空白となったのです。そのため道長は、突如兄たちの後継と目される立場になります。
しかし、道長の対抗馬もいました。それは道長の甥(長兄の息子)にあたる藤原伊周という人物です。道長と伊周のレースは、はじめ伊周が有利だったものの、最後には道長が逆転し、摂関に準ずる「内覧」の地位を得ました。
道長と伊周はその後も対立を続けますが、最後には道長が勝利し、伊周は左遷されてしまいます。これにより、道長は藤原氏のリーダーの地位を確立します。これよりもう少し先の話になりますが、正式に摂政の地位も手にしています。
その後、道長は娘たちを次々と天皇の后にしました。長女・彰子は一条天皇の后となり、次女・妍子は三条天皇の后となりました。そして、三女の威子が後一条天皇の后となった日、すなわち寛仁2(1018)年10月16日、道長は祝いの宴会を開きます。
この日の様子は、藤原実資という人物が『小右記』という日記に記録しています。それによると、道長は宴で、戯れにこんな歌を詠みました。それがいわゆる「望月の歌」です。
この世をば わが世とぞ思ふ もちづきの かけたることも なしと思へば
「満月の欠けたところがないように、この世は私の思い通りの世の中だ」という程度の意味でしょうか。この宴こそが、道長の、そして藤原氏の栄華の頂点でした。
道長の横顔
道長にはこんな有名なエピソードがあります。道長が若い頃、父の兼家が藤原公任という人物と息子たちを比べ「お前たちは公任の影を踏めるほどの才能もない」と悔しがったのですが、道長は「影どころか、その面を踏んづけてやります」と言い放ったというのです。ほかにも、敵対していた伊周と大声で怒鳴り合ったなどという話も伝わっています。
権力闘争を勝ち抜いたわけですから、道長には冷徹な策謀家の面はもちろんあったでしょう。しかし、冷遇されていた藤原兼家の、しかも四番目の男子として生まれた道長は、本来であれば、平凡な貴族として平凡な人生を送っていてもおかしくなかったのです。それにもかかわらず最高の栄華を手にしたわけですから、とてつもない強運の持ち主でもありました。その上でさらに、上記のエピソードが示すような度胸や感性も持っていたと考えられます。
藤原道長とは普通の平安貴族のイメージとはちょっと違った人物だったのかも知れません。
摂関政治・その後
こうして藤原氏は栄華を極めましたが、それは長くは続きませんでした。道長の子の頼通の時代までは、まだ藤原氏の権力は絶大でした。しかし、それを最後に、藤原氏の力は急速に萎んでしまいます。
その理由は、天皇に嫁がせた頼通の娘に、男の子が生まれなかったことにありました。やがて後三条天皇という藤原氏と血縁の薄い天皇が即位し、自らの政治を行うようになったのです。これで事実上藤原氏による摂関政治の時代は終焉し、次の政治形態「院政」の時代へと歴史は進んでゆくのです。
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