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れきたん歴史人物伝
れきたん歴史人物伝は、歴史上の有名人の誕生日と主な歴史的な出来事を紹介するコーナーです。月に一回程度の割合で更新の予定です。(バックナンバーはこのページの最後にもまとめてあります)


2月号 2011年2月28日更新

【今月の歴史人物】
政党内閣を組織した敏腕政治家
原敬
安政3(1856).2.9〜1921.11.4

今月号のイラスト
原敬
君も無念をはらしたか?
(C) イラストレーション:結木さくら


2月の主な誕生人物
01日 児島惟謙/裁判官
02日 菅茶山/江戸時代の儒者
02日 ジョイス/小説家
03日 メンデルスゾーン/作曲家
03日 河竹黙阿弥/歌舞伎作者
03日 西周/思想家
04日 リンドバーグ/飛行家
05日 若槻礼次郎/政治家
06日 アン女王/イギリス女王
07日 モア/思想家
08日 ヴェルヌ/小説家
09日 原敬/政治家
10日 新井白石/江戸時代の政治家、儒者
11日 エジソン/発明家
11日 小林古径/画家
11日 折田信夫/歌人、民俗学者
12日 ダーウィン/博物学者
12日 リンカーン/政治家
13日 渋沢栄一/実業家
13日 ショックレー/物理学者
14日 豊田佐吉/実業家、発明家
14日 広田弘
/政治家
14日 中川一政/画家
15日 井伏鱒二/小説家
16日 日蓮/鎌倉時代の僧
16日 荻生徂
/儒者
16日 大隈重信/政治家
17日 シーボルト/医者、博物学者
17日 島崎藤村/詩人、小説家
18日 フェノロサ/美術研究家
18日 マッハ/物理学者
19日 コペルニクス/天文学者
20日 志賀直哉/小説家
20日 ボルツマン/物理学者
21日 ザビニー/法学者
22日 ショーペンハウエル/哲学者
22日 ヘルツ/物理学者
22日 高浜虚子/俳人
23日 ヘンデル/音楽家
23日 本多光太郎/物理学者
23日 ヤスパース/哲学者
24日 パークス/外交官
24日 グリム(ウィルヘルム)/言語学者、童話集成家
24日 陸象山/儒者
25日 ルノアール/画家
25日 松方正義/政治家
26日 ユーゴー/小説家、劇作家
26日 与謝野鉄幹/歌人、詩人
27日 ロングフェロー/詩人
27日 シュタイナー/哲学者
28日 モンテーニュ/思想家
29日 ロッシーニ/作曲家

今回ご紹介するのは歴史の授業でも必ず学ぶ政治家、原敬(はら・たかし)です。「最初の本格的政党内閣を組閣」したという業績がことに有名ですが、そこまでの道のりは、なだらかなものではなかったようです。

故郷が「朝敵」に
原敬が生まれたのは安政3(1856)年2月9日。江戸時代の末期、あるいは幕末の入り口と言った方が適当でしょうか。ちょうど日本が開国の衝撃に揺れていた頃です。生家は陸奥国盛岡藩の上級武士の家でした。この盛岡藩は、この直後の時期、ほかの東北諸藩とともに、激動の時を迎えることになります。
それはつまり明治維新に伴う動乱「戊辰戦争」でした。この内戦において、東北諸藩の多くは、薩摩藩・長州藩を中心とする新政府軍と対立し、戦い、敗北したのです。そして、薩長を中心とする新政府軍が朝廷を押し戴いていたために、それに敵対したかれらは「賊軍」「朝敵」とされました。その汚名は明治の新時代に入っても消えず、「朝敵」藩の出身者はさまざまな場面で肩身の狭い思いをしたといいます。原の盛岡藩は、その中の一つだったわけです。

所属を転々と
原の若年時代は、なかなかに腰の据わらないものだったようです。明治時代初頭、15歳の時、原は東京へと出てきて神学校に入りました。これは、キリスト教者を志していたというより、学費がかからないというメリットによるものだったようです。なお、この頃、原は実家から分家し、自らの身分を「平民」としました。
神学校でフランス語などを学んだ原は、やがて司法省法学校に優秀な成績で入学できました。ここは当時の官立らしく、大変なエリート校。授業料も無料で、それどころか支給金まであったといいます。
ただ、これほどまでに有利な学校を、原は入学の3年後には退学しています。ある学生がトラブルを起こして処分を受け、原をはじめとする学生代表の数名がそれに不服を表明したため、退学処分になったという顛末でした。
発端となったトラブルとは、空腹の学生が食堂に忍び込んで食べ物を頂戴した、という些細といえば些細な事件であり、それがここまでこじれたのは、原の出身も少なからず影響していたともいいます。つまり、「朝敵」藩出身の原は何かと目を付けられやすかったということでしょう。しかも間の悪いことに当時の校長が薩摩の出身で、これも原には不利に作用したようです。
ちなみに、同時に退学させられた面々には、後にジャーナリストとして有名になる陸羯南(くが・かつなん)などもいました。
その後、原は新聞記者となって『郵便報知新聞』や『大東日報』に勤めました。その間に実力が認められ、やがて政府に勤めることになるのです。この時、原は26歳。所属を転々としつつも、結局どこかに取り立てられるということは、やはり原という人が相当に優秀だったことは間違いないようです。

陸奥宗光
ところで、当時の政府は「藩閥」が君臨する世界でした。藩閥というのは、維新に功のあった薩長出身者を中心とするグループのことです。この藩閥に属する者は政府内で優遇され、逆に非藩閥者はなかなか昇ってゆくことができなかったのです。
先述のように原は非藩閥、それも「朝敵」藩の出身者でした。そのため、政府に勤めた後も、能力のわりには何かと地味な扱いに留め置かれてしまいます。
しかし、その流れを変えたのが、陸奥宗光との出会いでした。
陸奥宗光。幕末期には坂本龍馬に従った志士で、この頃は政府で大臣まで務める大物政治家になっていました。
陸奥宗光の大きな特徴は非藩閥であるということでした。何しろ彼の出身は徳川御三家の一つ・紀州藩です。紀州藩は維新時、新政府に恭順の態度を示したことから「朝敵」にはならなかったものの、藩閥とは程遠い出自には変わりありません。それが新政府で確かな地位を築いているということは、やはり実力において秀でていたのです。
陸奥は、藩閥の壁の前でもがいている原の能力に注目し、重く用いました。これで原のキャリアは一挙に開け、陸奥の外相時代には外務次官をつとめるまでに出世しました。
陸奥宗光といえば治外法権の撤廃、日清戦争への対応など、外交上の業績が有名ですが、これらの仕事を側近として支えたスタッフが原だったということです。
やがて陸奥は病気のために大臣を辞職します。原はしばらく政府にとどまっていたものの、間もなく政府を去り、官僚生活を終えました。

政治家として立ち、総理へ
政府を辞して後、原は再び新聞界に戻ります。大阪毎日新聞に所属した原は社長などを務めますが、このころ、政界にも動きがありました。それは、伊藤博文らによる立憲政友会の立ち上げでした。
この頃の日本では議会政治がスタートしていました。議会政治においては、政府が強引に物事を決め、実行してゆくというやり方は通りません。政治を円滑に進めるためには政党政治を形にすることが必要でした。それを見越した伊藤らが立ち上げたのが立憲政友会です。原はこの立憲政友会に誘われたのです。
44歳になっていた原はこの誘いに乗りました。政友会創設に積極的に関わり、新聞社もまもなく辞め、党の幹事長、そして逓信大臣にもなりました。原が本格的な政治家として遂にスタートしたのです。
やがて原は政友会の実質的なトップとして党運営を行うようになりました。この時期、原はその政治力を遺憾なく発揮しています。間もなく現れた「桂園時代(桂太郎と西園寺公望が交替で内閣を受け持った期間)」においては、政友会総裁・西園寺を助け、桂太郎やその他の政府重鎮の間を取り持って政治的な調整を行いました。
原は政党人として、政党政治を確立するという大目標のために奮闘しました。しかし、それを快く思わない者たちもいました。旧来の藩閥です。政党というグループが力を持つということは、藩閥というグループが力を失うことにつながるからです。藩閥の核は百戦錬磨の明治の元勲などであり、原にとっては非常に手強い相手でした。そこで原は、あえて彼らと激しく対立することはせず、うまく交渉しながら党を発展させてゆく道を選びます。
このやり方は上手く行きました。原の政治力は当時の政界に響き渡り、原嫌いの人物でさえ、次の総理は原と認めざるを得ないほどの状況になったのです。
そして1918年、ついに原は総理の座を射止めることになりました。それはすなわち、初の本格的政党内閣誕生を意味しました。原敬、62歳の時のことです。なおこれは、東北出身者初の総理、そして衆議院議員初の総理でもありました。
総理になった原は国際協調的な外交への転換、行政機構の改革、インフラ整備や教育整備などの政策を行いました。また、政友会の勢力を維持拡大するための施策も積極的に行いました。原の仕事は着実に日本の政治風景を変えてゆきました。
しかしながら、総理就任から3年後の1921年11月4日、東京駅において、原の政治に不満を持つ一般人青年に刺され、突然にその生涯を終えました。東京駅の暗殺現場には、今もそれを示す印が設置されています。

「平民宰相」原敬
原敬の異名に「平民宰相」というものがあります。原が爵位を持たず、授与も拒否し続けたことからきていますが、これは原が平等主義だった、民衆の味方だったなどという次元の話ではないようです。実は原の政治スタンスは、特別に民衆に寄り添っていたということもなく、むしろ資本家や権力者寄りと言えるものでした。結局、藩閥政治を打ち破り、政党政治を定着させるために活用できる肩書きとして「平民」を利用していたと考えた方がよいでしょう。原は、どこまでも強かな政党人だったのです。
原が急死した後、政党政治の勢いは落ち込んでゆきます。原の政治力があまりにも高かったため、ぽっかりと空いたその穴を埋められる者がいなかったのです。それからしばらくして軍部の台頭が激しくなり、五・一五事件における犬養毅総理の暗殺をもって、戦前の政党政治は終焉を迎えました。そこから始まるきな臭い時代の到来が必然だったのかは何とも言えないところですが、原の死によってそれが早まったとは言えるかも知れません。

 


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