今回は歴史出来事カレンダーにある「東大寺大仏の開眼式」に着目し、大仏にまつわるあれこれをご紹介します。
大仏を造立せよ
大仏造立。それは、日本始まって以来と言えるほどの巨大プロジェクトでした。これを決定したのは奈良時代の天皇・聖武天皇です。
聖武天皇といえば学校でも必ず習う日本史の重要人物。その名を記憶されている方も多いでしょう。仏教を統治の要として大いに重視した天皇です。その治世には天平文化という文化の華も開きました。ちなみに、皇后の光明皇后は藤原不比等の娘で、かの藤原鎌足の孫にあたります。天皇を助け、慈善事業などもよく行ったことが伝わっています。
聖武天皇が、大仏を造れという指示「大仏造立の詔」を出したのは、天平15(743)年のことです。それに先立つこと2年、天平13(741)年には、全国に国立の寺院を建てなさいという「国分寺建立の詔」が出されていました。いずれも、仏教の力を使って国を安らかに治めたいという考えのもとに出された命令です。
なぜそのように考えられたかというと、まさにこの時期、国が乱れていたからです。疫病が流行して朝廷の重要人物が次々と亡くなりましたし、九州では内乱も発生しました。この状況を脱するために仏教を推進し、大仏を造ろうと天皇は考えたのでした。
「奈良の大仏」ではなく……
実は当初、大仏は奈良に造られる予定ではありませんでした。大仏建立の詔が出されたのも奈良ではなく紫香楽宮(しがらきのみや)であり、それは近江国(現在の滋賀県)にありました。大仏の建造も、一度は紫香楽宮近くに土地を用意して開始されたのです。
紫香楽宮はその名が示すように「宮」、天皇の離宮です。宮のあった紫香楽の地は天皇のお気に入りだったらしく、いずれは本格的な都をそこに建設しようともしていたようです。
ちなみにこの時期、すでに都は奈良(平城京)にはありませんでした。国内の乱れをしずめる目的で、都の移動(遷都)を繰り返していたからです。紫香楽宮も、その過程で出現した離宮であり、新しい都(の候補地)だったというわけです。
この後、結局、都は平城京に戻され、その地であらためて大仏が造られることになります。しかし、歴史の転がり方が少し変わっていたら、奈良の大仏は「滋賀の大仏」になっていた可能性もあったのです。
大仏さまのつくり方
こうして奈良の地で大仏の建造は開始されました。建造責任者は仏師・国中公麻呂(くになかのきみまろ)と伝わります。どのようにして建造したのかご紹介しましょう。
●まず、原寸大の大仏模型(原型)を造ります。木組みに縄や木々を巻き付けるなどして大まかな芯を建て、そこに粘土をかぶせてさらに形を作るという手順です。模型と言えど原寸大ですから、この時点ですでに作業の規模はかなり巨大です。
●できた模型の外側に、再び粘土をかぶせて、大仏の型を取ります。出来た型は切り分けて外しておきます。
●模型の表面を一定の厚みで削ります。
●前に作った型を模型にかぶせます。すると、表面を削った分、型と模型の間に隙間ができています。
●隙間に溶けた銅を流し込みます。
これで、型を外すと銅製の大仏ができあがる、というわけです。型取りや銅流し込みの工程は、造っているものの巨大さから一気には行えず、8回に分け、数年もかけて行われたと伝わります。また、上記は工程をごく簡単にまとめたものに過ぎず、ほかにも型を焼いたり、土を盛ったりと、さまざまな工程が存在しています。
なお、実際の工事を担ったのは多くの民衆たちです。危険な工程も多々あり、死亡事故さえ頻発しただろうと推測されています。また、大仏を造るのに必要な予算を捻出するために財政は悪化、民衆の税負担は増すことにもなりました。国家安定を願う大仏造立プロジェクトだったのに、結果として内政のさらなる不安定を招いたことは、皮肉としか言いようがありません。
盛大な開眼供養
天平勝宝4(752)年4月9日、大仏の開眼供養が盛大に行われました。開眼供養とは、できあがった仏像の眼を書き入れる大切な儀式で、いわば仏像の完成式典です。ちなみに、大仏の正式名称は「奈良の大仏」ではなく「盧舎那仏坐像(るしゃなぶつざぞう)」といいます。盧舎那仏という仏様が座っている像、ということです。
しかし、開眼供養の時点で、大仏殿はなんとかできあがっていたものの、大仏は未完成でした。大仏への金メッキが完了するのがその5年後、大仏全体の完成は開眼供養からおよそ20年近くも後のことでした。ただし、作業工程や期間の問題から、儀式の時点で大仏殿はできあがっていたはずがないという説や、金メッキは儀式のときに完了していたという説もあるなど、実際にどういう状態で開眼供養が行われたのかははっきりしない部分があります。
ともかくこの年に開眼供養は開催されました。儀式には、聖武天皇(ただし、この時はすでに退位して太上天皇)や光明皇后(この時は皇太后)はもちろんのこと、僧や都の役人ら1万人以上が参列しました。当時の日本の人口はせいぜい数百万人と考えられています。1万人と言えば現代の尺度でも大した人数ですが、当時では空前とも言える参列者数なのです。
眼を書き入れたのは菩提僊那(ぼだいせんな)というインド出身の高僧と伝わっています。筆には長い長い紐が付けられており、参列者たちはその紐を握ることによって仏との縁を結びました。ちなみに、この時に使われた紐や筆は今も正倉院に残されています。
その後の大仏さま
その後、大仏はどうなったでしょう。実はそのまま穏やかに座り続けていたわけではなく、たびたび壊れることがありました。
ヒビ割れなどの自然に起きる傷みは、8世紀の末頃にはすでに発生していたといいます。傷みはだんだんと進行し、9世紀には頭部が脱落したことまでありました。
また、戦乱に巻き込まれて大きく破壊されたことが二度もありました。
一度目に大きく壊れたのは、いわゆる源平合戦の時代、治承4(1180)年のこと。平重衡という人物が放った火により、大仏も大仏殿も無惨に焼け落ちてしまいました。しかし、その後間もなく建て直されています。
二度目は戦国時代、永禄10(1567)年のこと。松永久秀らが行った戦いによって焼かれてしまいました。松永久秀といえば裏切り者の代名詞的存在として、悪役イメージの強い武将ですが、大仏焼亡にかかわったこともそのイメージに大きく影響しているでしょう。しかも、この時は大仏も大仏殿もなかなか完全再現に至りませんでした。大仏さまは応急手当てがなされただけのというボロボロのお姿で放置され、大仏殿の方も、何とか仮に建て直されたものが大風で倒壊してしまい、その後はやはり放っておかれました。こうして長い時間が経過し、全ての直しが終わって大仏と大仏殿が奇麗に揃ったのは、何と江戸時代中期、18世紀初頭のことでした。
今あるのは「別の大仏」?
そういうことがありましたから、実は現在の大仏は、奈良時代そのままの姿ではないのです。奈良時代そのままの状態なのは台座や服の一部などごく限られた箇所。顔つきなどは、奈良時代当時とは随分違っていると言われています。ただ、それでも大きさや格好自体がそれほど変わっていないだけまだマシというもので、大仏殿に至っては奈良時代より30mほども幅がサイズダウン、屋根などの外観もずいぶん変わってしまったようです。さすがに奥行きや高さは同じなのですが、やはり当時とはかなり異なる建物だと言わざるを得ないでしょう。
とはいえ、このような像や建造物は、修理もその歴史の一部です。千数百年も昔の奈良時代に作られて、源平の戦いで焼けて修理され、戦国時代の合戦でまた焼けて、江戸時代にようやく修理された。壊れても壊れても、何とかこれを残していこうという人々の思いが連綿と受け継がれ、今の大仏さまと大仏殿の形になった……そう思うと、やはり歴史の大きなロマンを感じませんか。
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