今月取り上げるのは、偉人伝などでも頻繁に取り上げらる人物・ナイチンゲールです。偉大な看護婦としてよく知られており、彼女の誕生日の5月12日も「国際看護師の日」という世界的な記念日になっているそうです。しかし実のところ、「看護婦・ナイチンゲール」という捉え方は、彼女のほんの一面を示しているに過ぎないようです。
学問好きの少女
ナイチンゲールは1820年5月12日に、裕福なイギリス人夫婦の次女として生まれました。生誕地はイギリスではなく、両親の滞在先であるイタリア。滞在の理由は「新婚旅行」でした。当時のイギリス富裕層にとって新婚旅行が数年にわたることは珍しくなく、この時もその途中だったというわけです。
帰国後のナイチンゲールはお金持ちのお嬢様らしく、大切に育てられました。彼女はきわめて頭がよく、知的好奇心に富んだ性格をしていました。そこでナイチンゲールの父は、彼女に素晴らしい教育環境を与えます。語学、哲学、数学、芸術……ナイチンゲールは当時の少女としては異例なほど贅沢に学問と触れ合いました。
「神の声」を聞く
そんなナイチンゲールが看護の道を志したきっかけは「神の声」だったといいます。1837年2月7日とその日付まで残っているそうですが、この日、彼女は世の中に奉仕しなさいという神の声を聞きます。現代の日本に生きる私たちにとって「神の声」という理由は少々理解しがたいものがありますが、ともかくそのような何かが、彼女を動かしました。
それから後、満ち足りた暮らしを送りつつも、ナイチンゲールは神の声の意味を探します。そして20代の半ば頃、ついに発見したのが、病人の看護という道でした。
しかし、当時における看護婦とは、お世辞にもよい仕事とは言えないものでした。現代のような系統化された専門職の姿とは程遠く、ただ単に病人の身の回りの世話をする程度のもの。担い手は貧しい女性たちで、酒浸りで素行の良くない人々も相当多かったといいます。そもそも当時の病院からして、現代のそれとは内容が違います。大抵が貧しい病人をようやく収容するための最低限の慈善的施設に過ぎず、環境も劣悪でした。
看護婦になりたい!
それだけに、ナイチンゲールの看護婦志望は、家族に猛反対されてしまいます。しかしナイチンゲールの決意は揺るがず、看護婦になるその時のために独りで勉強をし、準備を進めます。そして30歳を過ぎた頃、彼女は家族の反対を振り切って看護婦の訓練所に入ります。(既に触れたように専門職としての「看護婦」は確立していなかったのですが、ごく初期的な教育施設がドイツで立ち上がっていました。ナイチンゲールはそこに入ったのです)
とうとう具体的な看護実務を学んだナイチンゲールは、間もなくロンドンの婦人向け病院の運営責任者となります。そこにおいてナイチンゲールは、看護を行うのみならず、施設のさまざまな問題点を見つけて改善し、病院運営の効率化・健全化まで成し遂げることとなるのです。
この活躍は時の戦時大臣の目に留まりました。この大臣はもともとナイチンゲールと知り合いで、その縁もあって彼女に手紙を出します。その内容は「クリミア戦争に看護婦として赴いて欲しい」というものでした。
伝説的な活動
クリミア戦争というのは、英仏トルコなどとロシアなどが戦った大きな国際戦争です。開戦は1854年ですが、後方に設けられた野戦病院の無惨な環境がその年のうちに早くも報じられ、英本国で大きな話題となっていました。大臣は、その状況をナイチンゲールに救ってもらいたいというのです。
こうしてナイチンゲールは看護婦を組織し、戦地の病院へと向かいます。
いわゆる看護婦ナイチンゲールとしての伝説的な活動は、この期間になされたものです。ナイチンゲールの着任時、病院の状態は報じられていた通りに酷いものでした。病院の建物は広いばかりでボロボロ、その床に無数の傷ついた兵士が転がされているというありさまです。衛生状態は最悪で、物資もきわめて不足していました。
ナイチンゲールはこの状況に全力で立ち向かいました。傷病兵の看護を献身的に行い、広大な病院内を毎晩見回りました。酷い衛生状態の改善にも動き、英本国からそのための命令を引き出しました。この「衛生状態の改善」は特に大きな成果が上がり、傷病兵の死亡率は劇的に減少しています。
このようなナイチンゲールの活躍は、英本国でも大きく報道されました。ナイチンゲールは英雄のように称えられる存在となりますが、あまり派手に振る舞うことはせず、戦場からも偽名を使ってひっそりと帰国しました。その後、戦場での仕事の中で病気にかかってしまったこともあり、ほとんど社会の表舞台に姿を見せなくなってしまいます。
と、ここまでがよく知られた「ナイチンゲール伝」ではないかと思われます。ところが実際には、ここから先の人生においても、彼女は大きな仕事を成しているのです。
その後のナイチンゲール
以下で、ナイチンゲールが成した主な仕事をご紹介しましょう。
●クリミアその後
クリミア戦争からの帰国後、ナイチンゲールは現地で得た多くのデータ類をもとに、陸軍の衛生状態や食事、兵舎設備などについての統計をまとめ、分析を行いました。そして、それらをもとに、陸軍の衛生政策や組織の変革を提案し、実現してゆくのです。その際には英国の政治家など、大物と堂々交渉し、渡り合いました。ナイチンゲールはしばしば「天使」になぞらえられますが、この時の彼女はそれとは程遠く、まさに才女、猛女といったイメージです。
●教育者として
ナイチンゲールは教育者としての活動も行いました。英国に「ナイチンゲール看護学校」という学校が作られ、直接先生を務めたりしたわけではないものの、彼女もその運営面や指導面に携わりました。この学校の設立により、それまでは芽吹き程度の段階だった近代看護教育が、いよいよ本格的な段階に入ったとされます。
●その他
ほかにもナイチンゲールはさまざまなことを行っています。例えば、病院建築に関する提案。部屋を広く確保し、天井は高く、窓はベッド一つにつき一つ設置する、というようなもので、この造りは、この後の病院へも実際に取り入れられています。
著述家としてもたくさんの著作を残しています。その分量は膨大、ジャンルも多彩で、専門の看護や衛生についてはもちろんのこと、哲学や宗教関係のものまでが含まれます。
ナイチンゲールは、日本にも直接関係しています。女子英学塾(のちの津田塾大学)を創設し、日本の女子教育の先駆者とされる津田梅子はナイチンゲールと会うことを熱望し、滞英中、実際に面会しました。この時ナイチンゲールは80歳近い高齢、津田は30代半ばといった年齢でした。二人は日本のことなどを語り合ったと伝わっています。
時代の先導者
ナイチンゲールが亡くなったのは1910年8月13日のこと。90歳という長寿でした。
ナイチンゲールが、偉大な看護婦であったことは間違いありません。かつて看護の仕事の大半は女性が担っていましたが、今では男性も就く職業になり、ナイチンゲールの時代とはずいぶん様変わりしました。日本での呼び名も「看護婦」「看護士」から「看護師」となっています。しかしその源流には、やはり彼女のなした仕事が記念碑のようにそびえているのです。
その一方で、ナイチンゲールが看護の実務に身を捧げた、つまり「看護婦」として働いた期間は、意外にもそれほど長くないと言ってもよいでしょう。それは、クリミア戦争で働いた時期を核とするわずか5〜6年の間に過ぎません。
彼女はそもそも、その頃から看護婦を超えた仕事を成していました。例えばクリミア戦争に赴いた当初、正規の軍医たちは彼女らを疎みました。看護婦に何ができる、と相手にしなかったのです。ナイチンゲールはそこを上手く立ち回って現場への介入に成功し、さらには本国をせき立てて各種の命令や約束を引き出し、野戦病院の環境改善につなげました。看護の実務は、言わばそれらの仕事の一側面に過ぎないのです。海外などでは、膨大なデータに基づいて衛生にまつわる仕事を行ったことから、ナイチンゲールを統計家、統計学者として扱うことも多いようです。
つまりナイチンゲールとは、看護婦でありつつも、学者や、政治家や、社会活動家、教育者といった側面も持ち合わせた人物だったのです。しかも、当時は社会的な立場がまだまだ弱かった女性という立場で。
看護婦・ナイチンゲールとは彼女の一側面に過ぎません。本当の彼女は、多才で、意志力に長けた、時代の先導者の一人だったと言えるのではないでしょうか。
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