今回ご紹介するのは17世紀の科学者・思想家であるパスカルです。40歳を前にこの世を去った人物ですが、短い生涯だったとは思えないほど多彩な業績を残しました。
天才的な少年
パスカルは1623年、フランスのクレルモンで誕生しました。1623年は日本で言うと江戸時代の初期。大坂の陣が終結してしばらく経ち、いよいよ江戸幕府が強固な支配体制を確立しようとしている時期にあたります。
パスカルの父は税務関係の役人でしたが、学者肌の人物であり、その方面の人脈も持っていました。パスカルはその影響を受けて育ち、幼い頃から学問に天才的な力を発揮したと伝わります。何しろ、10歳を少し過ぎた頃には数学の証明を行ったり、物理の論文を書いたりしていたというのですから、大したものです。なお、母は早くに亡くなっています。
さて、そんな彼がまず本格的な仕事をやってのけたのは、17歳の時。『円錐曲線試論』という論文を発表し、当時の学界に高く評価されています。この時期に発見した有名な定理が「パスカルの定理」です。
さらに同時期、パスカルは機械式の計算機も作っています。父の仕事を手助けするために設計したものでした。
ジャンセニスムとの出会い
パスカルが20代前半のころ、父が事故に遭って身体をこわしました。この時に知り合った人物を通し、パスカルとその家族は「ジャンセニスム」の教えに目覚めます。
ジャンセニスムとはあまり聞き慣れない言葉ですが、キリスト教の一派の呼び名です。人間の罪深さと、神の恩寵の重要性を強く説いており、ただ真っ直ぐに宗教的境地を突き詰めてゆくような特徴がありました。
このジャンセニスム、カトリックの腐敗が著しかった当時のヨーロッパで着々と信奉者を増やしていました。むろんカトリック教会にとっては好ましいことではなく、両者はたびたび対立します。
ともかくパスカル一家はこの教えに帰依しました。ただ、この時に最も影響を受けたのはパスカルではなく、彼の妹・ジャクリーヌでした。数年後、パスカルの父は亡くなりますが、ジャクリーヌはまもなくポール・ロワイヤルというジャンセニスムの修道院に入ってしまうのです。
一方、パスカルはこれに強く反対したと伝わっています。パスカルはこの時期、さまざまな人物と交流し、学問に打ち込む道、つまり妹とは逆の世俗的な生活を楽しむ道を選び、実際にそのような暮らしを送ってゆくことになります。
キリスト教とともに
パスカルの世俗的な暮らしは、20代の終わりから30代初めごろにかけて続きました。しかしそんな日々もやがて終わります。パスカルの内面で宗教に対する思いが大きくなり、一足先に世俗の生活から去っていた妹のもとにもたびたび相談に訪れるようになるからです。そして、1654年の11月23日と伝えられていますが、この日、パスカルはとうとう決定的な回心をし、キリストのために生きると誓うのです。この回心の理由は、世俗の生活の中でその空しさや虚ろさを感じたとか、パスカルは体質が虚弱でたびたび体調を崩しており、救いを求めていたとか、さまざまに言われています。おそらくそのそれぞれが理由だったのでしょう。
この後のパスカルは、ポール・ロワイヤル修道院を拠点に、禁欲と思索の中へ自らの身を置いて、まさに宗教とともに生きることになります。そして、思想家、著述家としてのパスカルの本領は、この時期から発揮されてゆくのです。
この時期に書いたものとしては、カトリックの敵として扱われたジャンセニスムを弁護する『プロヴァンシアル』という文書が有名です。分かりやすく、鋭くまとめられたその内容は大いに評判となり、教会関係者を面食らわせ、激高させたと伝わります。さらにパスカルは、キリスト教の課題についての思想をまとめた著作の準備も進めてゆきました。ただ、パスカルの体調は、それらの活動の中で悪化してゆきました。
しかも、パスカルの信じたジャンセニスムへの弾圧は強まるばかりでした。ジャンセニスムの信奉者達は改宗への署名を強制的にさせられ、パスカルの妹・ジャクリーヌはそれを拒否しながら亡くなりました。ほとんど憤死、殉教死のようなものだったと伝わります。パスカルはもうしばらく頑張り続けましたが、体調はますます悪化し、妹の死のおよそ1年後、1662年8月19日、39歳という若さでこの世を去りました。
前述したキリスト教についての著作はとうとう完成しませんでしたが、パスカルの死後、その膨大なメモ類が整理されて出版されました。これが有名な『パンセ』です。これはキリスト教の分野のみならず、後世の思想界に大きな影響を与えました。
現代に生きるパスカル
パスカルは350年も前の人物ですが、現代も色褪せていない数多くの業績が残っています。その一部をご紹介しましょう。
●「パスカルの定理」
数学分野の業績です。詳しい説明は省きますが、2本の直線上にあるいくつかの点を結んだ時、それらの交点が一直線上にある……といったようなもので「射影幾何学」という学問で重要な定理だそうです。驚くのが、パスカルはこの定理を16歳の頃に発見していることです。
●機械式計算機
今は全く見かけなくなりましたが、歯車などで計算する「機械式」の計算機が戦後まで使われていました。パスカルはその初期のものを発明しており「パスカリーヌ」などという名で呼ばれています。構造が複雑、製造費も高額で、売れ行きは芳しくありませんでした。しかし、「機械によって計算する」という着想と、それを実現させたという業績は小さくなく、はるか後世に出現する「コンピュータ」の遠い先祖の一つとも言われています。
●「パスカルの原理」
こちらは物理分野の業績。密閉された容器の中に液体を満たし、一部分に圧力をかけてやると、あらゆる部分の圧力がその分増加する、というもの。現代の学校でも教えているおなじみの法則です。
●『パンセ』
パスカルの生前のメモ類がまとめられたもの、と紹介しましたが、この中には現代でもよく知られている「名言」が収録されています。特に有名なのが[人間は考える葦である]という言葉。そしてもう一つ、クレオパトラの鼻がもう少し低かったら世界は変わっていた……という[クレオパトラの鼻]にかんする一節も、実は『パンセ』に入っている言葉です。
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