今回は、「年号が大正に改元される」という出来事にちなみ、「大正時代」についてご紹介しましょう。
大正時代のはじまり
1912年7月30日の未明、明治天皇が崩御し、新天皇(大正天皇)が即位しました。これによって年号も改元され、明治45年が大正元年となります。大正時代のはじまりでした。
ただし、実際に明治天皇が崩御したのは7月30日ではなく、7月29日の夜遅くだったようです。しかし、その時刻は日付の変更までに間がなく、関連の儀式を執り行うのに不都合が出るため、公式発表で7月30日未明ということにしたと言われています。
大正デモクラシー
大正時代といえば、歴史の上では「大正デモクラシー」という言葉がまず有名です。ただ、それが具体的に何を指すのかというと、はっきりと確定はしていません。大正期、政治や社会、文化の各方面において、民主主義的・自由主義的な志向や運動が広くあらわれました。それらを総合して「大正デモクラシー」と呼ぶことが、一般的には多いようです。
大正デモクラシーを代表する学者が2名います。まず一人目は、東京帝国大学の吉野作造。彼が唱えたのは「民本主義」というものでした。これは、天皇主権であった当時の体制の中に、民主主義的な政治のあり方を取り入れようとした理論で、大正デモクラシーを支える一つの柱となりました。なお、この「民本主義」は、現在では「民主主義」と訳されている「デモクラシー(democracy)」の、当時における訳語でもあります。
大正デモクラシーを代表するもう一人の学者はやはり東京帝大の美濃部達吉で、彼が唱えたのは「天皇機関説」でした。これは憲法の解釈にかかわる学説で、天皇を国家の各機関のうちの最高機関と考えるものです。天皇主権は否定しないものの、天皇を国家の上に立つ絶対的な君主とは捉えないのがポイントで、やはり大正デモクラシーを代表する理論でした。
これらの理論にリードされ、大正期の政治は民主的な空気の中で進行しました。明治期に大きな力を持った薩長出身者のコネクション「藩閥」も徐々に力を失い、特権的な中央集権の形は徐々に緩んでゆきます。代わりに台頭したのは、藩閥の権力構造からは一線を画す政治グループ「政党」です。その流れの中で「初の本格的政党内閣」原敬内閣が成立しました。これらはまさに、大正デモクラシーの成果の一つだったと言えるでしょう。
大正時代の外交
大正時代の外交における最も大きなトピックは、第一次世界大戦ではなかったでしょうか。その勃発は1914(大正3)年のこと。主な戦場は欧州でしたが、日本も英国との同盟(日英同盟)を理由に参戦し、中国などにおけるドイツの勢力圏を占領しました。さらに日本は、中国に「二十一か条の要求」を突きつけました。これは、中国における日本の利益を認めさせる各種の要求で、中国には受け入れがたいものがありました。しかし、欧州各国が自らの戦争で手一杯のタイミングだったということもあり、いくらかの内容修正を経て、結局、要求は受け入れられることになっています。
一方、外交からは少々離れますが、第一次世界大戦の勃発は、日本に経済的利益ももたらしました。地元での戦争のため欧州の輸出力は落ち、それによって日本の生産国としての地位や力は上がりました。欧州向けの輸出も伸び、国内は空前の好景気に沸いたのです。「成金」と言われる新興の富豪も続々と誕生しました。成金がお札を燃やして玄関を照らす風刺画は非常に有名で、目にしたことのある方も多いでしょう。
もう一つ、大正期の大きな外交トピックとして挙げられるのが「ワシントン会議」の開催です。これは、極東情勢や軍縮問題に対応する目的で、第一次大戦終戦後に開かれた国際会議で、日本ももちろん参加しました。会議の結果、中国や太平洋地域の諸問題に関わる条約や、海軍軍縮条約などが結ばれ、これらを基軸とする「ワシントン体制」が成立しました。この後しばらく、日本外交は国際協調を重視する時代に入ります。
大正時代の文化・社会
大正時代に起こった社会を揺るがす出来事といえば、関東大震災があげられるでしょう。1923(大正12)年の9月1日に起こったこの地震はマグニチュードが7.9、東京を含む関東各地に大被害を出し、死者・行方不明者は10万人を超えたとされています。また、災害の混乱状態の中、国内の朝鮮人が暴徒化したとのデマなどが広がり、多くの朝鮮人や中国人が殺害されるという事件も起こっています。
このような悲惨な出来事があった一方、大正時代は文化・社会の面でさまざまな発展の見られた時代でもありました。地域の都市化が進み、デスクワークに従事するサラリーマンが増加し、女性の働き手である「職業婦人」も出現しました。
また、彼ら一般大衆を中心とする大衆文化の花も開きました。各種の雑誌や新聞が大いに読まれるようになるなど、マスメディアが発達しました。ラジオ放送が始まったのも大正時代のことです。
ほかにも、現代につながる多くのものが登場しました。例えば、洋服が大きく普及したのもこの頃のことですし、カレーライスやトンカツといった洋食メニューが一般的になっていったのもこの頃からです。ダンスホール、カフェといった場所が賑わい、先端のファッションで着飾った「モボ(モダンボーイ)」「モガ(モダンガール)」と呼ばれる若者が現れました。
ただし、これらの発展はあくまで都市のものでした。地方の暮らしは相変わらず貧しく、両者の格差は開いていったことも、この時代の一つの側面です。
大正時代の終わり
大正時代が終わるのは1926(大正15)年の12月25日のこと。この日、大正天皇が崩御し、皇太子(昭和天皇)が即位しました。
大正時代は、確かに自由で華やかな時代でした。しかしそれだけの時代でもありません。数々の問題をはらんでもいたのです。
例えば、第一次世界大戦における二十一か条の要求。これは、後の軍部の暴走を直接的に示唆しているとまでは言えないかも知れません。しかしながら、日本が持っていた膨張への欲求をストレートに表しているものではあります。これによって中国国内の反日感情は決定的なものとなり、五・四運動という反日・反帝国主義運動も起こりました。また、この少し前には、朝鮮半島における反日・独立運動である三・一運動も起こっています。これら膨張にともなう摩擦は、当時の日本が抱える、暗く大きな懸案事項でした。
経済的にも危うい時代でした。第一次世界大戦においては好景気に湧いたことも触れましたが、終戦とともにそれも終わり、反動による不況に突入します。この回復の途上に関東大震災が起こり、日本経済はまた大きな打撃を受けます。その後も金融恐慌、昭和恐慌という恐慌が日本を襲い、1920年代から30年代初頭にかけての日本経済は、まるで回復の度に崩壊するような有様だったのです。これらのダメージは、その後、日本が戦争の時代へ踏み込んでゆく一因ともなりました。
近代国家建設に全力を尽くした明治時代。戦争への道を転げ落ちるように暴走した昭和時代前期。大正時代とは、それらを繋ぐ過渡期であり、束の間の自由を謳歌した短い安定期でした。この濃密な14年の中には、伸びゆく国家が持つ熱と、破綻に向かう陰が同居し、一つの強烈な個性を発散しているように感じられます。
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