今回ご紹介するのは、西洋史上屈指の文豪として賞賛されているゲーテです。彼が数多くの優れた作品を残せたのはなぜか。その理由は、どうやらゲーテの人生そのものにありそうです。
法律と文学と恋
ゲーテは1749年の8月29日、ドイツ(当時は神聖ローマ帝国)・フランクフルトに生まれました。1749年といえば日本では江戸時代。有名な8代将軍・徳川吉宗の引退後で、9代・徳川家重の時代です。
ゲーテの父は法律家でしたが、これといった職にはついておらず、学問や読書をしながらゆったりと暮らすような身でした。つまり、ゲーテの家はそれが可能なほど裕福だったということです。なお、母はフランクフルト市長の娘です。そんな環境の中、ゲーテは家庭教師に教育を受け、さまざまな書物に親しみながら育ちました。
16歳になったころ、ゲーテはフランクフルトを離れ、ライプチヒの大学で法律を学びはじめます。ただ、法律一筋に学んでいたわけではなく、詩の創作なども行っていました。ちなみに、この時期のゲーテの詩は、恋が一つの動力になっていました。ゲーテはこの頃、葡萄酒屋の娘、アンナ・カタリーナに恋をしていからです。
これに限らず、ゲーテはこののちの人生、さまざまな女性と関わり、恋をします。恋はゲーテの人生を貫く、大きな大きな要素と言えるでしょう。
ライプチヒでの大学生活は3年ほどで終わります。ゲーテが肺の病にかかってしまったからでした。ゲーテはいったん故郷に帰り、身体が良くなると今度はフランスはストラスブールの大学に通い、やはり法律を学びます。この時期のゲーテにもいくつかの出会いがありました。大きかったのは、ヘルダーという文学者と知り合ったことです。ヘルダーはゲーテに対して文学や建築などについてのさまざまな素養を授けました。ある意味、文豪・ゲーテの基盤がこの時期に育っていったとも言えます。
恋も生まれました。この時期のゲーテの恋の相手は牧師の娘、フリデリーケ・ブリオンです。後に著されるゲーテの代表作『ファウスト』の中には、彼女をモデルとした女性が重要な役割を担って登場します。
さて、このように過ごした学生時代でしたが、ゲーテが22歳の頃には法律家の資格を得て、一応の区切りとなります。その後ゲーテは法務の実習のため、ヴェツラーというところにあった当時の最高裁判所へと行くことになります。
ここまでのゲーテを見ると、法律家の道をしっかり歩みながら文学活動も行っていたように思えます。ところが実際はその逆でした。この頃にはゲーテの関心はほとんど文学の方に向いていたとされます。
ワイマールへ
ヴェツラーでゲーテはまたもや恋をしました。相手はシャルロッテ・ブフという女性。この恋は熱烈だったようで、ゲーテは一時期、自殺を考えるほど悩んだといいます。そして、この恋をもとに生み出された小説が有名な『若きウェルテルの悩み』でした。
この小説、内容はズバリ、恋に悩んだ青年がついに自殺してしまうというものです。まさにゲーテの実体験の小説化といってよいでしょう。この作品は非常に受け入れられ、当時のヨーロッパ中にブームを巻き起こしました。これによってゲーテの文名は大きく高まったのです。ちなみに、『ファウスト』が書き始められたのもこのころです。
さて、『ウェルテル』の出版後まもなく、ゲーテの人生に大きな転換点がやってきます。当時のドイツにワイマール公国という国がありましたが、ゲーテはワイマール公みずからに招かれ、そこへと赴いたのです。
公国でのゲーテはワイマール公に頼られ、政治家として忙しく働くことになります。また、文学的な活動も旺盛に行っています。この時期に作られた作品で日本人にもよく知られているのは、物語詩『魔王』などでしょうか。さらに、科学に興味を持ち、その研究にも手を付けています。
さらに、この時期にも恋が生まれています。相手はシュタイン夫人という年上の女性です。教養深く、洗練された女性だったシュタイン夫人との付き合いを通して、ゲーテは人間的な成長を得ました。
しかし30代の後半を迎えた頃、ゲーテはイタリア旅行へと旅立ちます。多くの政務、そしてシュタイン夫人との親しい関係などに疲れたための静養という意味合いもありました。この旅行を通してゲーテは元気をすっかり回復し、再びワイマール公国に戻りました。
イタリア旅行はゲーテにとってひとつの区切りとなりました。ここからのゲーテは政務からほとんど手を引きます。代わりに力を傾けたのは宮廷劇場の管理者の仕事、そして科学の研究です。もちろん文学的な創作活動も行っています。
詩人で作家だったシラーとの出会いは、この時期のゲーテにとって大きなトピックだったでしょう。彼との交わりの中でゲーテの文学的感性は大いに刺激され、研ぎすまされました。有名な『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』、そして『ファウスト』の第一部は、シラーとの交流がその完成に大きく影響したものとされています。
なお、この時期、ゲーテはクリスティアーネ・ブルピウスという女性と知り合い、妻としました。正式な結婚は随分後になるのですが、息子も生まれています。
ゲーテが56歳のとき、親友・シラーが死にました。この頃からがゲーテの晩年期とされているようです。むろんこの後もゲーテは作品を著し続け、さらにはいくつかの恋までしています。例えば73歳(!)の頃には、50歳以上も年下の少女に思いを寄せたりもしています。
そんなゲーテが死んだのは、1832年3月22日のこと。80歳を超える長命でした。死の直前には、結果的に生涯をかけて書き継ぐことになった『ファウスト』の第二部を完成させています。
「これこそ人間だ」
ゲーテの生涯を見て驚くのは、やはりその多彩さです。何と多くの恋をしたことでしょうか。法律家、詩人、作家、政治家、科学者と多方面に渡って活動したことでしょうか。
ゲーテの後半生は、世界史的にはナポレオン戦争の時代と重なっています。ナポレオンは『ウェルテル』の熱烈な愛読者であり、ゲーテとナポレオンは実際に対面しています。その時ナポレオンが発した言葉は(さまざまに訳されていますが)「これこそ人間だ!」だったと伝えられています。ゲーテの特徴を表すのに、なかなか的確な言葉のように思えます。人間としてきわめて充実した人生を送ったからこそ、素晴らしい作品を著し、世界史上屈指の文豪として名を残した――ゲーテとはそういう人物だったのでしょう。
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