今月は明治の後期から大正時代にかけて3度総理大臣をつとめた桂太郎をご紹介します。桂の総理在任中、日本にはさまざまな歴史的大事件がありました。逆に言えば、政治家としてそれだけの情勢を託されたわけですが、桂がそんな政治家にまでなった経緯とはどんなものだったのでしょう。
動乱の時代を経て、海外へ
弘化4(1848)年11月28日、長州藩・萩の武士の家に桂太郎は誕生しました。
桂の少年期といえば、国内は幕末動乱期のまっただ中。いうまでもなく長州藩はその動乱の主役を演じた藩の一つです。桂も10代の前半から藩の西洋式軍隊での訓練を受け、やがては実戦にも参加してゆくことになります。
このころ桂が参加した主な戦いは、幕府が長州を攻めた「第二次長州征伐」や、薩長を中心とした勢力と旧幕府軍との戦い「戊辰戦争」です。特に戊辰戦争では東北地方を転戦して活躍し、最終的に賞典禄250石を受けています。
賞典禄とは明治維新で功績のあった人物に対して政府から与えられるいわば褒美で、藩主クラスは数万石から数千石単位で与えられたと記録されています。桂の250石はそれと比べれば見劣りするのものの、桂の実家が貰っていた禄が年に125石だったので、年収の倍額はあるということになります。ただ、桂は実家の収入について『我が家は禄多からざれば』と述べています。『多からざる』禄の倍にあたるのであれば、やはりそこまでの高額とは言えない価値なのでしょう。
明治時代に入ると、桂は軍人になることをめざします。同時に強く願ったのが海外へ留学して軍事を学ぶことで、そのための学校にも入ったほどでした。しかし、さまざまな事情からそのルートでの留学は頓挫してしまい、桂は自費での留学を決意します。留学費は主にあの賞典禄をあてることにしました。
桂は明治3年にドイツへ留学しました。大変がんばって勉強したそうですが、当時の留学は大変にお金のかかるもの。やはり費用に苦労し、留学を途中で切り上げて帰国することになってしまいます。とは言え、桂はおよそ3年間ドイツで過ごすことができ、その間に得た知識もかなりのものになっていました。
帰国後、桂は陸軍に正式に入りました。階級は決まりによって大尉からです。将校とはいえ、維新における実績や留学の履歴を持つ桂に対してはいかにも低い階級でした。しかし、それを陸軍の大物である山県有朋に詫びられた際、「軍隊の秩序を守らないといけないから、初任を大尉以上にするのはよくない」ときっぱり答えたという話が伝わっています。
陸軍に入ってからも、桂はドイツへと赴任し、現地で軍事の研究なども行っています。
出世街道
さて、陸軍での桂を語る上で、欠かせない人物がいます。それは、先ほども登場した山県有朋です。陸軍の大物であり、明治の後期から大正期には、軍どころか政界そのものを動かす大権力者になる人物です。山県は桂と同じ長州藩出身で、優秀な桂をよくかわいがりました。両者はその後、強く結びつきながら明治という時代を歩んでゆくことになるのです。
長州出身という出自、維新の動乱で活躍した実績、留学経験、山県という後ろ盾。いつの間にか数々の武器を手にしていた桂は、その後、軍で順調に出世してゆきます。
軍の中での桂の実績としては、まず陸軍の組織を、政治と軍事とで分離するよう提案(参謀本部設立の提案)したというものがあります。ほかにも、さまざまな部分でドイツ式を取り入れるなどし、陸軍の近代化に貢献しました。
1894(明治27)年には、日清戦争という大きな戦争も起こりました。桂はこの時陸軍中将にまでなっており、師団長(※)として戦場に立ち、活躍しました。終戦後は爵位(子爵)を与えられました。
1898年、桂は第3次伊藤博文内閣の陸軍大臣になります。軍事からより政治向きの領域に活動が移ったことになりますが、大臣としての桂の手腕は確かで、陸軍の組織改革や装備の改善などに実績を残しました。
このころ、ちょうど政治情勢が不安定な時期で、内閣は度々代わったものの、桂は留任を続け、結局3年ほども大臣をつとめました。
※師団=軍隊におけるまとまりの単位。国や時代によって違いはあるものの、概ね1〜2万人程度が属し、非常に大きな集団と言えます。
波乱の総理時代
1901年、桂はとうとう総理大臣になりました。と、言っても栄光に満ちたスタートというわけではありません。はっきり言えば期待薄の総理ととらえられていました。内閣自体も、前内閣(第4次伊藤博文内閣)が不調で短命に終わり、すったもんだの末に桂が総理大臣になることを受諾、山県派の人材を集めてどうにかこしらえたものでした。
しかし、意外にも桂内閣は働きました。その最も大きな仕事は、日露戦争の遂行です。その前段階である日英同盟の締結を成功させ、実際の戦争も上手く運び、日本は大国ロシアをどうにか打ち破ったのです。しかし、講和にあたって領土も賠償金も取ることができなかったため、国内では「日比谷焼き打ち事件」などの騒動が起こりました。
日露戦争の処理がほぼ終わると、桂内閣は総辞職しました。次の総理は西園寺公望。ここから、桂と西園寺が交互に組閣する「桂園時代」が始まります。ここから桂はあと2度の組閣を行いました。
第2次桂内閣で行われた政策としては、日韓併合や大逆事件の検挙、関税自主権回復のための条約改正などがあります。その評価は別にして、近代日本史上、非常に大きな出来事ばかりと言えます。
第3次桂内閣ですが、これは非常に短命で終わります。組閣の前、桂は内大臣をつとめていました。内大臣とは戦前にあった重職で、天皇の補佐をします。天皇の補佐ですから、内閣とは一線を画すのが当時の常識であり、内大臣をつとめていた者がまた総理大臣になるというのは基本的にあり得ないことでした。その内大臣をつとめていた桂がここであえて再登板したのです。その前の第2次西園寺内閣が倒れ、後任が見つからなかったことが大きな理由でした。
しかしこの内閣はやはり国民から総攻撃を受けます。そもそも前内閣の瓦解は、要求の通らなかった陸軍大臣が勝手に辞めたことが原因でした。そこに陸軍出身で、それも内大臣をしていた桂が組閣しても、国民の理解を得られるはずがなかったのです。政府に反対する運動は大きく燃え上がり(第一次憲政擁護運動)、「閥族打破、憲政擁護」のスローガン(※)のもと、第3次桂内閣はわずか2か月で倒れました。国民世論が内閣を倒す結果になったこの出来事は「大正政変」とも呼ばれています。
この苦しい総辞職のわずか8か月後、1913年の10月10日に、桂は病で亡くなりました。
※閥族=明治維新に功績のあった薩長出身者を中心とするコネクション。当時の政界の一大勢力であり、その専横に対する批判が高まっていました。
稀な政治家
桂太郎には、現代でも破られていない記録があります。それは総理在任日数記録です。合計2886日間。近年で長く総理を務めていた小泉純一郎元総理や中曽根康弘元総理と比べると、1000日ほども長い日数です。ちなみに、2位は佐藤栄作元総理の2798日間です。もしかしたら桂の記録は二度と破られないかもしれません。
近代史上の大きな出来事の数々に総理として立ち合った桂太郎。その経験から、晩年には当時の政治システムそのものの行き詰まりを感じ、政党政治の実現と新党の立ち上げも模索していました。第3次の組閣でその仕事を本格的に進めようとしていたのですが、そのとたん「閥族打破」のスローガンで退場させられたのはある意味皮肉でした。しかし、軍人出身としては稀な政治感覚を持った、近代を代表する政治家であったことは、実績から見ても、記録から見ても間違いないようです。なお、桂が志向した新政党は、桂の死後まもなく正式に結成されています(立憲同志会)。
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