今月ご紹介するのは、17世紀から18世紀にかけて活躍した科学者・ニュートンです。科学という学問分野そのものにきわめて重大な影響を与えた人物で、現代においても広くその名が知られています。
ケンブリッジ大へ
アイザック・ニュートンは、イングランド(イギリス)東部、リンカンシャー州にあるウールスソープという小村に誕生しました。誕生日は1642年12月25日のクリスマスです。1642年というと、日本史では江戸時代の前期にあたり、3代将軍・徳川家光が強力に統治を進めていた最中ということになります。
ニュートンの実家は自前の農場を経営する農家で、とりわけ金持ちというわけではないものの、それほど貧しくもありませんでした。父親はニュートンが生まれる直前に亡くなっており、母親はニュートンが3歳の時に再婚したことから、彼は祖母に養育されて少年時代を過ごしています。
12歳の年にニュートンは実家からやや離れた町の学校へと入学しました。この頃から学者気質が表れていたのか、寄宿先において風車や日時計などの制作を行ったこと、性格は内向的で、外に出て男の子らしい遊びをすることは好まなかったことなどが伝わっています。
19歳の年、ニュートンはケンブリッジ大のトリニティ・カレッジに入学しました。言うまでもなく名門大で、現在も世界的に有名な大学です。ニュートンはここで高度な学問に触れ、23歳の年に学位を取得しました。学位を受けた後もニュートンは大学に残ってさらに勉強を続けています。
大学での日々はニュートンにとって実りのあるものだったと言ってよいでしょう。ニュートンの数々の輝かしい業績は、若いこの時期に着想され、実験や考察によって練られていった部分が少なくありません。
また、師と言える人物とも出会いました。それはバローという数学者で、ニュートンの数学上の才能をよく認めました。よほど見込んだもののようで、ニュートンが27の年には自らの教授職を譲っています。
ちなみにその教授職は「ルーカス教授職」といい、今もケンブリッジ大に存在する有名な教授職です。ニュートンはその二代目にあたります。たとえ有能でも科学で身を立てることの簡単でなかった時代、若いニュートンがこの職を得たことは幸運だったと言えます。おかげでニュートンは科学者として最も力のみなぎった時期に、安定した研究生活を送ることができました。
「驚異の年」とその業績
話が前後しますが、ニュートンが大学を卒業したその年、ケンブリッジ大に一つの事件が起こりました。それは、ペストの大流行にともなう大学の閉鎖でした。ペストは当時非常に恐れられ、また実際に多くの犠牲者を出していた伝染病です。閉鎖という措置を受け、ニュートンも一時大学を離れて帰郷することになります。帰郷は2度なされ、その期間は通算1年半におよびました。
一人でじっくりと研究を進めるタイプの学者だったニュートンにとって、大学を離れたこの期間はいい方向に作用しました。ふるさとの静かな環境の中で自らの研究とあらためて向き合い、まとめ直す絶好の機会となったからです。その結果、「科学を変えた」と言われるほどのニュートンの科学的業績の主要部分が、この1年半の中で組み立てられることになりました。ニュートンの伝記ではこの帰郷期間を特筆すべきものととらえ、「驚異の年」などと表現されます。
さて、ここでニュートンの科学的業績について簡単に触れておきましょう。
まずは光学分野。太陽の光がさまざまな色の光が集まってできていることを発見したことなどが主要な業績で、ニュートンによって色と光についての科学的な研究は大いに前進しました。また、反射望遠鏡の開発などにも業績を残しています。
数学分野の業績では微積分法の開発があげられます。ドイツの偉大な数学者・ライプニッツも同時期に微積分法を開発したため、一体どちらが先に微積分法を開発したのかが後に論争になっています。
続いて力学の分野。ある意味ニュートンの代名詞とも言える分野で、万有引力についての研究は特に有名な業績です。りんごが木から落ちるのを見てこれをひらめいた、というエピソードは非常によく知られており、それはこの帰郷時のこととされます。ただし、これは出来過ぎで作り話だ、という説もあるようです。
後半生
以後のニュートンは、学者として着々と研究を進めて実績を重ね、イギリスの科学界においても認められるようになってゆきます。
1687年、ニュートンは著書『自然哲学の数学的原理』を出版します。通称『プリンキピア』と呼ばれる書物で、ニュートンの研究のうち力学分野の成果をまとめたものです。これによってニュートンの名声は決定的なものとなりました。この時、ニュートンは45歳でした。この後、ニュートンは科学の世界と完全に縁を切りはしないものの、科学の世界から、やや離れることになります。少なくともその前半生のような、科学者としての輝かしい活動を見せることはなくなります。代わりにニュートンが足を踏み入れたのは政治の世界でした。
まずニュートンは、大学の代表として国会議員に選ばれます。46歳の年でした。その後、国の造幣局の仕事に携わり、やがて造幣局の長官となりました。この時のニュートンは偽金づくりの取り締まりなどで成果を上げ、彼の在任中、英国内におけるそれらの犯罪は激減しています。
1727年の3月20日に、ニュートンは亡くなりました。85歳でしたから、かなりの長命と言っていいでしょう。偉人の中には、在世中には顧みられず、死後に急速に評価されるというタイプも多いのですが、ニュートンの場合はそうではありませんでした。当時からニュートンといえば科学者中の別格と世間に広く認識され、ナイトの位も授けられていました。これは科学の業績を評価されてナイトとなった最初の例です。ニュートンの最期は、栄光に包まれての死でした。
時代の人ニュートン
ニュートンの科学上の業績は言うまでもなく重要なものです。ニュートンがいなければ、その後の科学の形が変わっていた、というほどです。と、なると、ニュートンとは完全無欠で人間離れした科学の使者、といった印象が立ち上がってくるのですが……案外そうでもないようです。
ニュートンの性格は、一言でいえば偏屈でした。内向的で、頑固で、不安がちで、しかも自分や自説に楯突く者は決して許さないところがありました。対立した科学者も数多く、主なところではイギリス科学界の先輩・フック、初代グリニッジ天文台長・フラムスティード、ドイツの天才学者・ライプニッツなどがいます。
特にフックとの対立は、フックの性格がこれまた偏屈だったこともあり、非常に激烈なものとなりました。どちらが最初にあるアイデアへ手をつけたかなどをめぐって何度か応酬し、最終的には科学上の論敵と言うよりただの敵と言った方が正確なくらいにいがみあいました。フックの死後、ニュートンはかれの業績をつとめて無視したようなふしがあります。それが原因の全てとはさすがに言い過ぎでしょうが、偉大なニュートンに無視されたフックの存在はやがて歴史の中に埋もれ、再評価されるまでには長い時間がかかっています。
ニュートンは『プリンキピア』出版後に変調したこともあります。この時は教え子や友人を無根拠に非難するというようなやや異常な行動をとりました。不眠にも悩んだようです。大仕事を終えた後の空白感や、当時行っていた就職活動が上手くいかなかったことで追いつめられ、身体と心のバランスを崩したのだと言われています。
「神学」や「錬金術」についての研究に熱心だったこともよく知られています。その熱心さとは、むしろ今日で言われる「科学」の分野より、これらの分野の研究の方が分厚かったとも言われるほどです。ただ、こうしたことはニュートンに限らず、当時の科学者ならそうであっても不思議のないことでした。むしろ、神が創造した真理への信頼、それを解き明かしたいという欲求こそが、ニュートンの巨大な業績を根本で支えたのだとも言われます。
こうして見ると、ニュートンは時代を超越した超人ではなく、紛れもない17・18世紀の同時代人であったという感を強くします。そして、そう考えてこそ、ニュートンの業績のすごさが分かるようにも思えます。
|