今月は明治時代の小説家、森鴎外をご紹介します。
鴎外といえば、夏目漱石と双璧をなす近代文学の巨人として有名です。近年紙幣の肖像にもなるなど、今でも広く親しまれている漱石に比べ、鴎外のほうはやや地味な印象がありますが、なかなかどうして、その人柄や生涯は大変興味を引かれるものです。
※「森鴎外」の「鴎」の字は略字で、正しくは「メ」の部分が「品」と置き換えられます。このことはひところ議論となり、最近では略字で表記されることはほとんどありませんが、コンピュータの場合、この文字を表示できない環境が今も多く存在するため、ここでは略字で表記します。
待望の後継ぎ
鴎外が生まれたのは文久2(1862)年1月19日。津和野藩(石見国・現在の島根県)にて誕生しました。鴎外というのは筆名で本名は林太郎といいますが、ここでは鴎外で通すことにします。
森家は代々医師の家系で、しかも藩主の侍医でしたから、地元では名家のほうと言ってよいでしょう。親戚には明治期に活躍した思想家の西周(にし・あまね)がいます。鴎外の曾祖父は森高亮といいますが、高亮の息子が西の父、高亮の養子が鴎外の祖父という関係です。少々ややこしいのですが、代々の血縁があるのが西、森家を継いでいるのが鴎外、両者は親戚ですが血はつながっていないということになります。ちなみに鴎外の父も養子で、鴎外というのは森家にようやく生まれてきた跡継ぎの男の子という立場でもありました。
藩主の侍医の家柄に生まれた待望の跡継ぎということですから、鴎外は幼い頃からしっかりとした教育を受けることになります。先生について儒学を学び始めたのが4歳ごろ、やがて藩校に入学し、8〜9歳の頃にはオランダ語まで学び出していますから、これは大したエリート教育です。また、少年鴎外もそれについていっており、これも大したものというべきでしょう。
軍医の道
鴎外が10歳になった頃、森家と鴎外にとって大きな変化がありました。それは東京への移住です。明治維新が成り、廃藩置県が行われたために、森家の属した津和野藩主は東京に住むことになりました。このため、侍医である森家も東京へ移ったのです。
東京での鴎外は学問を続け、12歳の頃には東京医学校の予科に進みます。予科というのは上級の学校(この場合は東京医学校)へ進むために入る学校のこと。この予科を鴎外は順調に通過し、15歳の年に本科へ入ります。なお、この時期に東京医学校は東京大学医学部へと組織変更されており、鴎外はその一期生にあたります。
ここで触れておきたいのは鴎外の年齢です。鴎外が予科に入ったのが12歳、本科(東大)に進んだのが15歳ですから、いくら昔の話とは言え、少々若すぎはしないでしょうか。それもそのはず、実は鴎外は入学時に年齢を2歳サバ読みしているのです。10代の時期の1歳差とは大きなものです。それが、若い国家を背負う年上のエリートに混じって学んだというのですから、鴎外とはやはり、すばらしい秀才だったことが分かります。
さて、鴎外は大学を19歳で卒業し、その後、軍医として陸軍に入ります。鴎外は語学に長けていたことから、ドイツの軍隊衛生制度の調査研究などを担当しました。やがて鴎外は現地ドイツへと留学することになり、22の年に日本を発ちます。
留学中の鴎外は、本来の任務である衛生制度の調査研究はもちろんこなしましたが、それと同時にヨーロッパの芸術に触れたり、同じくヨーロッパ留学していた日本人たちと交流を深めたりと、さまざまに活動したようです。鴎外のドイツ留学はおよそ4年におよび、26の年に日本へと帰国しています。
また、このドイツ留学は、鴎外の文学活動に影響を与えたという面で非常によく知られています。ドイツ留学中の出来事は後に作品化もされており、例えば、留学中に恋仲となったドイツ人女性とのことが、小説『舞姫』の題材になっていることはあまりにも有名です。
作家として、軍人として
さて、ここまで、鴎外の創作活動にはほとんど触れてきませんでした。まるで普通の軍人の生涯を紹介しているようしたが、実際、ここまでの鴎外は本格的な創作活動に手を染めてはいませんでした。鴎外の創作活動が本格化するのは、まさに帰国直後のこの時期からであり、以後、前述の『舞姫』や『うたかたの記』といった有名作品を発表、各種の翻訳なども行うなど旺盛に活動します。この活動期間はおよそ10年ほど続いており、鴎外の1回目の活動期などと評価されています。また、この期間に鴎外は結婚もしています。しかし長続きはせず、長男が誕生して間もなく離婚しています。
鴎外の第2回目の活動期が始まったのは、少々間が空いて40代の終わりごろから。この時期に執筆された代表的な作品には『ヰタ・セクスアリス』『百物語』『妄想』があります。なお、ここに至るまでに鴎外は軍人として大栄達を遂げており、45歳の時には、軍医として最高の階級とポスト(陸軍軍医総監・陸軍省医務局長)に昇っています。
ところで、軍人としての鴎外、つまり「森林太郎」もさまざまな実績を残しています。先ほど触れたドイツ留学での調査研究もそれですし、軍事学分野における不朽の名著・クラウゼヴィッツの『戦争論』研究・翻訳の日本におけるパイオニアであることは、軍人にして文学者である鴎外らしい実績です。
もう一つ、これはどうやらプラスの実績ではありませんが、軍医として、脚気の研究史にその名を刻んでいます。当時、日本軍の中では兵士の脚気が問題になっていたものの、その原因は不明でした。そんな中、脚気予防には麦飯が有効だ、という説が出てきていたものの、軍医としての鴎外はこの説をしりぞけ、たとえば日露戦争などでは(鴎外は第2軍の軍医部長として出征)、従来どおりの米飯による食事を認めたのです。ところが、麦飯が脚気に有効というこの説は、その内容はともかく、後に明らかになる脚気の原因(ビタミンB1欠乏)から見ると、一つの対処法としては間違っていなかったのです。結果として、鴎外の対応はミスだったということになります。なお、日露戦争の日本陸軍における脚気犠牲者は万単位の数に及んでいます。
むろん、当時の陸軍における脚気予防の失敗がひとり鴎外のみの責任であるわけはありません。とは言え、当時トップクラスの軍医として、鴎外がこの問題にかなりの深さで関わったことも間違いありません。それだけに、上記のような鴎外の姿勢については批判も含めたさまざまな見解が存在しているようです。しかし、日本軍の脚気問題というのは実は相当分厚いテーマで、登場人物も多く、決着がつくまでの期間も非常に長いものです。本稿で扱うのは、とりあえずここまでということにしておきましょう。
森林太郎トシテ…
鴎外が50の年、明治時代が終わります。それに伴い、乃木希典陸軍大将夫妻が殉死したという出来事がありました。このことは鴎外に非常な影響を与えたとされ、これを境に、鴎外の作風が変化してゆきます。いわゆる「歴史もの」が増えてゆくのです。この後に発表された作品には『興津弥五右衛門の遺書』『安部一族』『高瀬舟』『渋江抽斎』といったものがあります。
鴎外が亡くなったのは1922年の7月9日。60歳でした。死に際して有名な遺言が残されており、それは「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」というものです。
鴎外の生涯を見て、最も印象深いのはその「二足のわらじ」でしょう。軍医として最高位にまで登りつめつつ、近代史上屈指の文豪としても評価される。こういう人物は極めて珍しいと言えます。作家そのものとしても多面的で、ドイツ留学を題材にした小説を書いたかと思えば、歴史小説にも傑作を残し、ほかに戯曲や詩集、翻訳作品なども著しました。議論好きというか、議論を呼び込むタイプの性質であったらしく、坪内逍遥と激しく論争を繰り広げたりした一方、交遊関係は大変に広く、多くの作家と親しくつきあっています。家庭生活としては、結婚・離婚したことに触れましたが、その後また再婚もしています。この多彩な人生を考えると「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」の遺言は、何か胸に迫るものとして感じられてきます。
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